2025年エシュコル掲載メッセージ



  • 2025/02/01
  • 福音

聖書の中で「最も大切な教え」とは

聖書は、とても分厚い本である。新改訳聖書2017の中型サイズで2,176ページもある。その中には、無数の大切な教え、真理が書かれているが、そのうち最も大切な教えとは何だろうか?

聖書とは、この世界、そして、私たち人間を造られた創造主なる神が、人間に語られた言葉が書き綴られた書である。その書かれた究極的な目的は、神の栄光である。つまり、神がいかに栄光に満ちたお方であり、その栄光が如何にして表されるか、ということが、聖書の最大の関心事である。この神の栄光とは、神が聖書を通して約束されたことが、その通りに成就するときに表れる。聖書の約3分の1が預言であると言われている。神は予めこのようになる、と宣言され、そして、事実、その通りのことが成就するのだ。預言が成就していく様を目撃することによって、私たちは、神が約束されたことを守られる、信頼に足るお方であること、また、約束を実行する力と権威を持っておられるお方であることを知ることができる。そして、人間がどれだけ抗おうとしても、神が宣言されたことは絶対にその通りになるのを見た時、私たちは神への畏怖の念を覚える。と同時に、このお方が約束されている祝福の約束もまた、ただの気休めなどではなく、100%その通りになると信じられるので、平安と希望を頂くことができる。

さて、私たち人間にとって、最大の関心事は、自分の将来はどうなるのか、だ。私たちは、今幸せに生きるため、そして、将来幸せに生きるために、今、色々なことを忍耐したり、努力したりしている。しかし、たとえ、どれだけ頑張ろうとも、人生が突然終わる瞬間が来る。それが「死」だ。私たちは、死という最大の問題をコントロールすることができない。食べ物に気遣ったり、適度な運動をしたりすることで、健康寿命をある程度延ばすことはできても、せいぜい100歳程度しか生きることはできない。

昨日まで元気だったのに突然事故で死んでしまうということもあり得る。そのような中で、まともな精神を保って生きるためには、死について考えないようにするか、死についての解決策を持つか、のいずれかによらなければならない。多くの方が、死について考えないように、忙しく毎日を生きておられるのではないだろうか。しかし、突如、死の問題が迫ってきた時に、恐れが襲ってきて、夜も眠れなくなるということはないだろうか。真に心平安に生きるためには、死の問題を解決するしかない。実は、聖書には、その死という最大の問題への解決策が記されているのだ。

聖書の中で、神は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9章27節)と教えておられる。そして、罪を解決しないまま死んだものは、死後のさばきの後、火の池に投げ込まれ、そこで永遠に苦しみを受けると警告しておられる。聖書が教える罪とは、単に法律に違反することに留まらず、造り主である神に背き、自己中心な生き方をすることに罪の本質がある。たとえ人を殺したことがなくても、心の中で人を憎んだ時、それは心の中で殺人の罪を犯しているのと等しい、というのが神の基準である。よって、全ての人は漏れなく、神の前に罪人であり、死後のさばきで有罪となるしかないのだ。しかし、神は、私たち人間を愛しており、一人として滅んで欲しくないと願っておられる。そこで、私たちが永遠の滅びから免れるための道を一つだけ用意してくださったのだ。それが、イエス・キリストを信じる信仰、という道である。

神が、イエスという人間となられ、全人類の罪を贖うために、十字架にかかり、罪の刑罰を身代わりに受けてくださったのだ。そして、イエス・キリストは、死んで墓に葬られたが、三日目によみがえられた。この復活によって、イエス・キリストは真の救い主であることが公に証明された。その後、復活されたイエス・キリストは500人以上の弟子たちの前に現れ、40日間に渡って神の国について教えられ、雲に包まれて天に昇っていかれた。イエス・キリストは、今は私たちの目には見えないが、生きておられ、大祭司として私たちのために執りなしてくださっている。このようなお方としてイエス・キリストを信じるなら、私たちの全ての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのだ。そして、もはや死とは滅びの門ではなく、神の国に入る祝福の門となる。やがて、キリストが地上に戻って来られる時に、私たちは、決して朽ちることのない栄光のからだによみがえり、その後、罪も死も悲しみも苦しみもない完璧な世界で、永遠に生きることができる。これが、神が約束してくださっている祝福の希望である。

この福音のメッセージが、膨大な聖書の中で、最も大切な教えであると言える。使徒パウロも、以下の聖句でこの最も大切な教えを簡潔に教えてくれている。

コリント人への手紙 第一 15章3~5節
"私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、
また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。"

この福音を信じる者は救われる。もはや死の問題で悩んだり、苦しんだりする必要は皆無である。安心して、残された地上生涯を全うすることができる。まだこの救いを受け取っていない方は、文字通り、今、イエス・キリストを信じ、罪の赦しと永遠のいのちを得て頂きたい。一度信じれば、その効果は、永遠に続く。神の栄光がかかっているので、この約束は絶対に守られる。

  • 2025/01/01
  • 救い / 信仰

よく知らずに「間に合ってます」って言ってませんか?

「あの〜、イエス・キリストを信じればあなたも救われるのですが、お話聞いてくださいませんか?」
「あ、いや、間に合ってますんで、すいません。」

クリスチャンからイエス・キリストについて話しかけられた時に、「間に合ってます」と言って断る方が少なくないだろう。しかし、本当に「間に合っている」と自信を持って言えるか?と聞かれたら、なんとなく、という人が大半ではないだろうか。実は、全然「間に合っていない」というのが現実である。その理由をこれから解説したい。

私たちは皆、いつか必ず死ぬ。これは紛れも無い真理であり、誰も疑う人はいないだろう。では、死んだらどうなるのかについて明確な答えを持っているだろうか?もし明確な答えがないのだとしたら、あなたは「間に合っていない」と言わざるを得ないだろう。死んだらどうなるのか、私たちは誰一人として実際に見たことがないので、世の中には様々な考え方がある。しかし、「真実はいつも一つ」なのだ。では、どうやってその一つの真実を見分けたら良いのだろうか。それは、命と死についての真実を知っており、絶対に真実しか口にしない人の話を聞くしかない。しかし、そんな人は存在するだろうか?私たち人間の知識は有限であり、また、間違い得る存在である。自分は絶対に真実であると言う人がいたら、むしろ疑った方が良いだろう。ところが、全知全能であり、絶対的に真実なお方が存在するのだ。それが、【神】である。

神と言うキーワードが出てきただけで拒絶反応を示す人もいるだろうが、あなたが知っている神と、私がここで言っている【神】は全く別の存在である。私が言っている【神】とは、この世界の第一原因者であるお方であり、創造主であるお方のことである。先ほど「真実はいつも一つ」と言ったように、この世界が存在している原因は一つしかない。巷では進化論があたかも真実であるかのように語られているが、ビッグバンが起こる前は何があったのか、どうやって無から有を生じさせたか、納得のいく説明はなされていない。因果関係で考えた時に、たとえ私たちの常識に反しようが、この世界は目に見えないものによって造られた、と考える以外に合理的な説明は不可能である。つまり、私たち人間より高次元の存在によって私たちは造られたが故に、その存在を私たちは認識することができないだけであり、事実、その存在はこの世界が存在していることによって証明されているのだ。

ここで野球盤を思い出して欲しい。野球盤とは、平面で行う野球だ。ボールは常に平面の上を動いている。しかし、消える魔球というのがある。それは、ホームベースの直前に穴が空いて、そこにボールが落ちることを言う。つまり、2次元の世界から3次元の世界に移動したことによって、2次元の世界からは消えたように見えるのだ。2次元の世界からは消えたように見えても、ボールは存在しなくなったわけではない。これと同じように、私たちが生きている世界よりも高次元の存在は、私たちには認識することができないが、だからと言って存在していないとは言えない。聖書は、創造主である【神】は霊的な存在であると教えている。その【神】が、ことばによって、無から有を生じさせてこの世界をお造りになったと教えている。これは私たちにとって超自然的に感じられるが、しかし、事実、私たちに見える世界が存在していることが、そのことが真実であることを雄弁に物語っている。

聖書は、【神】がこの世界を造り、私たち人間を造り、私たちに命を与えたと教えている。この【神】は全知全能であり、このお方に不可能なものは何もない。また、このお方は絶対的に義であり、聖(罪や悪と無縁)であり、真実なお方である。

【神】はそのご性質の故に、嘘偽りを言うことが不可能である。その【神】が仰ることは絶対であり、捻じ曲げられることは決していない。この【神】のことばが書き綴られているのが、聖書である。聖書は、【神】が初めに造られた世界には罪や死はなかったと言う。

しかし、最初の人間アダムが神の命令に違反したために、死がこの世界に入り込み、人を含む生き物は全てやがて死ぬ存在となった。アダムとエバの子孫である私たち人類は、生まれながらにアダムの罪の性質を持って生まれ、罪を犯さずには生きられない存在となった。そして、罪を抱えたまま死んだ人間は、一人残らず【神】のおられないところ、すなわち、いわゆる地獄というところで苦しみながら永遠の時を過ごすのだ。これが、私たち人間が受け入れなければならないバッドニュースだ。

しかし、【神】は、私たち人間を愛しておられるので、私たちが地獄に行くことを望んでおられない。そこで、全人類の罪を贖い、【神】の国に入るための道を用意してくださった。その「道」というのが、イエス・キリストである。

イエス・キリストは、【神】ご自身が罪の全くない人間として処女マリアから生まれたお方である。イエス・キリストが、私たち全人類の罪を贖うために、本来私たちが受けなければならない罪の刑罰を身代わりに受けてくださり、十字架にかかって死んでくださったのだ。そして、墓に葬られた後、イエス・キリストは三日目に蘇られた。この蘇りのイエスを、500人以上の弟子たちが目撃している。その目撃証言が、新約聖書の中で書かれている。このイエス・キリストは、復活してから40日間地上に滞在された後、雲に包まれて天に昇られたため、今私たちの目には見えない。しかし、今も生きて、天で大祭司として私たちのために執りなしてくださっている。

このようなお方としてイエス・キリストを信じ、そのご人格に信頼した者は、罪が全て赦され、永遠のいのちが与えられる。つまり、一度死んでも、イエスが復活されたように、復活することができるのだ。そして、将来、【神】や他のイエスを信じる人たちと共に、罪も悪も悲しみも苦しみも嘆きもない、完璧な世界で永遠に生きることができる。これが、【神】が聖書を通して私たちに伝えてくださっているグッドニュースである。【神】は、全知全能であり、真実なお方なので、この約束を果たす能力があり、ご自身の栄光にかけて、必ず約束を成就される。このグッドニュースを受け取り、罪の赦しと永遠のいのちを自分のものにした人こそ「間に合っている」人なのだ。

ヨハネの福音書 3章16節
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"

是非、新年のこのタイミングで、イエス・キリストを信じ、真に「間に合っている」人になって頂きたい。

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