- 2025/11/01
- 希望 / 死の解決(信仰義認)
永遠の希望
子どもの頃、「も〜い〜くつね〜る〜と〜、お正月〜♪」と歌いながら、新しい年の始まりを心待ちにしていた、という方も少なくないのではないだろうか。お正月になると、親戚が集まってご馳走を食べたり、一緒に遊んだり、お年玉をもらえたり、楽しいこと、嬉しいことが沢山あるからこそ、それを待ち望むのである。正月でなくても、週末や連休になったら映画を観ようとか、旅行に行こうとか、そういう先に楽しみがあるからこそ、日常の辛さを我慢して乗り越えることができる。こうした目先の希望が力を与えてくれるのであれば、永遠の希望がどれほど私たちに力を与えてくれるだろうか。
私たちの目に見える世界においては、人生というものは肉体が死んだ時に終わりを迎える、というのが常識である。それゆえ、生きている間に、いかに楽しむか、いかに満足するかが至上命題となる。すると、若い頃はともかく、歳を重ねるにつれ、死という現実が迫ってくると恐怖に襲われることになる。それゆえ、諦めて死を受け入れるか、最後の最後まで死を無視し続けるか、おおよそこの二つに一つを選ぶしかないだろう。これは、肉体が死んだら人生が終わるという前提にたった考え方である。もしこれが真理なのであれば、人生とはそのようなものだということで受け入れざるを得ない。しかし、聖書は、この考え方に真っ向からNOを突きつけている。
聖書は、人間は肉体的に死んで終わりではなく、霊魂は永遠に生き続けると教えている。そして、全ての人間は死後に肉体が復活して、神の裁きを受けることになる。その時、神に義とされているものは無罪となり、そうではないものは有罪となる。無罪となった者に待っているのは、新しい天と新しい地における永遠のいのちであり、有罪となった者に待っているのは、硫黄と火の燃える池での永遠の滅びである。これこそ、私たち全人類が直面しなければならない真理である。よって、この真理を前提に人生設計をしなければならない。つまり、死後の裁きに備えて、生きている今、神から義とされることが、何よりも重要である。
では、どうすれば神に義とされるのだろうか。聖書はその答えを明確に教えている。神は、イエス・キリストを信じる信仰を持つ者を、神の恵みによって義とする、と仰っている。私たちが、善い行いをして、一定水準以上の善人になったら義とされるのではない。ただ、イエス・キリストを信じるだけで良いのだ。そう聞くと、あまりにも簡単すぎて胡散臭い、と感じる方が多いだろう。しかし、それは本当に簡単だろうか?事実、あなたの周りにイエス・キリストを信じる信仰を持っている人はどれくらいいるだろうか。日本では、絶えず1%未満だ。100人に99人は信じていない。実にハードルが高い。神のことばをその通りに信じることは、それほどに難しいのだ。
聖書では「義人はいない。一人もいない。」と教えている通り、人間には生まれながらに神に敵対する性質を持っているので、人間の力だけによっては誰一人神のことばに聞き従うことはできないのだ。神の恵みが働いて、神が信じるように導いてくださってはじめて、私たちは自分の意思によって神のことばに応答することができる。神はそのように信仰によって応答する人を予め選んでおられるのだ。そして、神はご自分が選んだ人を、神のことばに従うように導かれている。今、この文章を読んでおられるあなたは、間違いなく、神に招かれている。そうでなければ、これを読むことはない。この目に見えない神の導きの御手を「摂理」という。摂理によって神に導かれた者が、自らの意思によって神のことばを信じる選びをする。その時に、神による救いのわざが完成する。
では、救われるためには、イエス・キリストの何を信じれば良いのか。それを端的にまとめて書いてあるのが、以下のコリント人への手紙第一15章3~5節である。
"私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。"
イエス・キリストは、全く罪がないお方であるにも関わらず、私たちの罪を贖うために、身代わりとなって罪の刑罰を十字架の上で受けて死んでくださった。これにより、神の義が全て成就した。そして、墓に葬られ、三日目によみがえられた。このお方は今は目に見えないが、神がおられる天の御座に就いて、大祭司として私たちのために執りなしてくださっている。そのようなお方としてイエス・キリストを信じるなら、私たちのすべての罪がイエス・キリストに転嫁され、イエス・キリストの義が私たちに転嫁される。この二重の転嫁によって、私たちは神の目から罪がなく、義とみなされる。
このようにイエス・キリストを信じて神に義とされた者は、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられている。それゆえ、一度肉体が死んでも将来必ず朽ちないからだによみがえり、悲しみや苦しみなどが一切ない神の国で、永遠の平安に生きることができる。この永遠の希望が、私たちに今を生きる力を与えてくれる。地上生涯においてどれだけ辛いことがあっても、必ず将来は栄光の世界に入ることができる。是非、神の招きに応答し、99人の側から1人の側に移ろうではないか。1人の側が2人、3人と増えていくことを願うばかりだ。