2025年エシュコル掲載メッセージ



  • 2025/11/01
  • 希望 / 死の解決(信仰義認) 

永遠の希望

子どもの頃、「も〜い〜くつね〜る〜と〜、お正月〜♪」と歌いながら、新しい年の始まりを心待ちにしていた、という方も少なくないのではないだろうか。お正月になると、親戚が集まってご馳走を食べたり、一緒に遊んだり、お年玉をもらえたり、楽しいこと、嬉しいことが沢山あるからこそ、それを待ち望むのである。正月でなくても、週末や連休になったら映画を観ようとか、旅行に行こうとか、そういう先に楽しみがあるからこそ、日常の辛さを我慢して乗り越えることができる。こうした目先の希望が力を与えてくれるのであれば、永遠の希望がどれほど私たちに力を与えてくれるだろうか。

  私たちの目に見える世界においては、人生というものは肉体が死んだ時に終わりを迎える、というのが常識である。それゆえ、生きている間に、いかに楽しむか、いかに満足するかが至上命題となる。すると、若い頃はともかく、歳を重ねるにつれ、死という現実が迫ってくると恐怖に襲われることになる。それゆえ、諦めて死を受け入れるか、最後の最後まで死を無視し続けるか、おおよそこの二つに一つを選ぶしかないだろう。これは、肉体が死んだら人生が終わるという前提にたった考え方である。もしこれが真理なのであれば、人生とはそのようなものだということで受け入れざるを得ない。しかし、聖書は、この考え方に真っ向からNOを突きつけている。

  聖書は、人間は肉体的に死んで終わりではなく、霊魂は永遠に生き続けると教えている。そして、全ての人間は死後に肉体が復活して、神の裁きを受けることになる。その時、神に義とされているものは無罪となり、そうではないものは有罪となる。無罪となった者に待っているのは、新しい天と新しい地における永遠のいのちであり、有罪となった者に待っているのは、硫黄と火の燃える池での永遠の滅びである。これこそ、私たち全人類が直面しなければならない真理である。よって、この真理を前提に人生設計をしなければならない。つまり、死後の裁きに備えて、生きている今、神から義とされることが、何よりも重要である。

  では、どうすれば神に義とされるのだろうか。聖書はその答えを明確に教えている。神は、イエス・キリストを信じる信仰を持つ者を、神の恵みによって義とする、と仰っている。私たちが、善い行いをして、一定水準以上の善人になったら義とされるのではない。ただ、イエス・キリストを信じるだけで良いのだ。そう聞くと、あまりにも簡単すぎて胡散臭い、と感じる方が多いだろう。しかし、それは本当に簡単だろうか?事実、あなたの周りにイエス・キリストを信じる信仰を持っている人はどれくらいいるだろうか。日本では、絶えず1%未満だ。100人に99人は信じていない。実にハードルが高い。神のことばをその通りに信じることは、それほどに難しいのだ。

  聖書では「義人はいない。一人もいない。」と教えている通り、人間には生まれながらに神に敵対する性質を持っているので、人間の力だけによっては誰一人神のことばに聞き従うことはできないのだ。神の恵みが働いて、神が信じるように導いてくださってはじめて、私たちは自分の意思によって神のことばに応答することができる。神はそのように信仰によって応答する人を予め選んでおられるのだ。そして、神はご自分が選んだ人を、神のことばに従うように導かれている。今、この文章を読んでおられるあなたは、間違いなく、神に招かれている。そうでなければ、これを読むことはない。この目に見えない神の導きの御手を「摂理」という。摂理によって神に導かれた者が、自らの意思によって神のことばを信じる選びをする。その時に、神による救いのわざが完成する。

   では、救われるためには、イエス・キリストの何を信じれば良いのか。それを端的にまとめて書いてあるのが、以下のコリント人への手紙第一15章3~5節である。
"私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。"

  イエス・キリストは、全く罪がないお方であるにも関わらず、私たちの罪を贖うために、身代わりとなって罪の刑罰を十字架の上で受けて死んでくださった。これにより、神の義が全て成就した。そして、墓に葬られ、三日目によみがえられた。このお方は今は目に見えないが、神がおられる天の御座に就いて、大祭司として私たちのために執りなしてくださっている。そのようなお方としてイエス・キリストを信じるなら、私たちのすべての罪がイエス・キリストに転嫁され、イエス・キリストの義が私たちに転嫁される。この二重の転嫁によって、私たちは神の目から罪がなく、義とみなされる。

   このようにイエス・キリストを信じて神に義とされた者は、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられている。それゆえ、一度肉体が死んでも将来必ず朽ちないからだによみがえり、悲しみや苦しみなどが一切ない神の国で、永遠の平安に生きることができる。この永遠の希望が、私たちに今を生きる力を与えてくれる。地上生涯においてどれだけ辛いことがあっても、必ず将来は栄光の世界に入ることができる。是非、神の招きに応答し、99人の側から1人の側に移ろうではないか。1人の側が2人、3人と増えていくことを願うばかりだ。

  • 2025/10/01
  • 神に喜ばれる生き方 

忠実たれ

自分は何のために生まれ、何のために生きるのかを知ることは、 豊かな人生を歩むために欠かせない。もしその答えがないまま生き るなら、それは目的地のない航海を続け、やがて大波に翻弄されて 行き場を失ってしまうようなものだ。

私たちを造られた神は、そのような人生を望んではおられない。 むしろ神は、私たちが自分の存在の意味を知り、祝福に満ちた人生 を送ることを願っておられる。そのために神は、私たちの航海を導 く灯台を与えてくださった。それがイエス・キリストである。

イエスは3年半にわたる公生涯において、多くの生きる指針を示して くださった。その指針に従うことで、私たちは神が与えてくださる 祝福の中を歩むことができる。その一つの指針が、「ミナのたとえ 話」に示されている。

ミナのたとえ話が教えているのは、「小さなことに忠実であること」 の大切さである。私たち一人ひとりには、神から特別な役割が与え られている。役割の内容や大きさには違いがあるが、神が求めてお られる忠実さの点では誰も変わらない。大きな務めを担うことが偉 いのではなく、与えられた役割を誠実に果たすかどうかが問われて いるのだ。

忠実に生きた者には、神からの報いが約束されている。それは「冠」 という将来の報いにとどまらず、何よりも「よくやった、良いしも べだ」という神からの言葉をいただけることだ。その瞬間を楽しみ に生きることこそ、イエスを信じる者の動機づけとなる。たとえ人 から誤解され、馬鹿にされたとしても、神の前に正しく歩み、与え られた務めを忠実に果たす時、私たちはこの世では得られない満た しと喜びを経験する。

神は、小さなことに忠実なしもべには、より大きな役割を与えて くださる。まるで「わらしべ長者」の物語のように、始まりは小さ くても次第に大きくされ、ついには偉大な働きを担わせてくださる。 ただしそれは偶然ではなく、神ご自身の御業によるものである。 信仰の父アブラハムも最初の一歩は「カナンの地へ行く」という 小さな従順であった。しかしやがて神と契約を結び、全世界に祝福 をもたらす器とされた。

私たちもまた、神がどのような務めを与えてくださるかを期待しな がら、目の前の小さなことに忠実に生きていこうではないか。

  • 2025/08/01
  • イエス・キリスト / 平安 

この世の価値観に疲れ果てた方へ

私たちが生きる今の世は、効率性、生産性が重んじられ、如何に世の中に役立つ人間かどうかが問われる時代だ。そんな中、多くの人たちが疲弊し、自らの価値を見出せず、苦しみの中を生きている。しかし、そのような価値観は、この世界を造られた創造主なる神から出たものではない。

神は、人をご自身のかたちに創造された。それゆえ、人とは本来ただ存在しているだけで価値があり、尊いのだ。その本来の価値観を否定し、誤った価値観によって私たちを苦しめているのは、神に敵対する存在、すなわち、悪魔である。悪魔は、神が造られた良きものを破壊し、自分が神のようになることを目的としている。それゆえ、悪魔は人を神から引き離し、この世の神として自分を拝むように世界を牛耳っているのだ。神は、直ちに悪魔を滅ぼすこともできたが、そうすると、悪魔の支配下にある人をも滅ぼすことになる。神は、私たち人間を愛しておられ、一人でも多くの人が神に立ち返り、永遠のいのちを持って欲しいと願っておられるので、その時を忍耐して待ってくださっているのだ。

神は、今から約2000年前に、イエスという人間として処女マリアから生まれ、この世に来てくださった。そして、イエスは、神の義をすべて全うされ、十字架の上で全人類の罪を贖うために身代わりとなって死んでくださった。そして、墓に葬られ、三日目によみがえられた。その後、イエス・キリストは、元々おられた天に帰られ、大祭司として今も人類のために働いてくださっている。神は、イエス・キリストをこのようなお方として信じる者の罪をすべて赦し、永遠のいのちを与えてくださる。この救いを一人でも多くの人が受け取るのを神は待っておられる。それが今という時である。

イエス・キリストは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と仰った。当時のユダヤ人は、口伝律法という人間が作ったルールに縛られて、不必要な重荷を背負わされていた。イエス・キリストはその重荷から人々を解放し、自由を与えてくださった。これが神の愛である。この愛を受け取り、このお方の教えに従って生きる者は、魂に安らぎを得ることができる。なぜなら、イエス・キリストの教えは、愛の律法であり、神がその人のうちに働いて愛を行わせてくださるからだ。

聖書には、イエス・キリストの教えが沢山書かれてあり、とても守ることは無理だと思うかもしれない。確かにそれを自分の力で行おうとすれば、出来ないどころか、むしろ、真逆のことをしてしまう衝動に駆られてしまう。しかし、神の力により頼むことで、神がそれを可能としてくださるのだ。

この世で生きていて悪魔の価値観に疲れ、へとへとになっている人は、是非イエス・キリストにその重荷を下ろし、自由と平安を受け取っていただきたい。神は、あなたが神のもとに立ち返り、神の愛のうちに安らぐことを心から待っておられる。猛暑が続く日々の中、霊肉ともに健康に生きることができますように。

  • 2025/07/01
  • 携挙 / 教会

結婚の奥義

人類史上、最初の結婚は、アダムとエバという一組の夫婦の間で行われた。

創世記 2章24節
"それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。"

この聖句にあるように、夫婦は「一体」である。この「一体」とは、お互いが独立しつつも、糊でくっつけたような状態になり、互いに契約を守り続ける状態になることを意味している。よって、結婚というのは、本来決して二人が離れることがなく、一体としてその状態が維持されるものである。もし離婚するようなことがあれば、糊付けされた紙がビリビリに剥がされるように、著しい痛みが伴うことになる。この結婚という制度は、神が人間に与えてくださった祝福であるが、実は非常に奥深い真理を宿している。その真理とは、イエス・キリストと教会の関係に関するものである。

聖書では、イエス・キリストは花婿であり、教会はその花嫁であると教えられている。イエス・キリストは夫として、妻である教会を愛しておられる。その愛は、命を捧げるほどの深い愛である。両者は一体となり、決して離れることなく、その愛の関係は永遠に続く。この素晴らしい真理が本体であり、その型として、結婚という制度が与えられた。人間同士の結婚関係を通して、キリストと教会の関係を理解できるようにしてくださったのだ。もちろん、罪人である人間同士の結婚関係は問題が多く、本来の姿が歪められてしまっている。しかし、キリストと教会の結婚関係は完璧なものであり、 そこには理想的な愛の関係がある。

今、イエス・キリストは、ご自身の花嫁である教会が、「しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないもの」となるように、きよめてくださっている。それが、私たち教会に属するクリスチャンの聖化である。聖化とは、罪の支配から解放されていくプロセスであり、私たちの人格がキリストに似たものに変えられていく過程を意味している。

これは、私たちの善行や頑張りによって達成するものではなく、神が一方的な恵みとして成してくださることである。私たちはただ信仰によって、神の恵みを受け取るだけで良いのだ。日々、聖書の御言葉を学び、そこで教えられている命令を実践していくことを通して、私たちの内側にいてくださる聖霊が働いてくださり、私たちの心をきよめ、その思いや行いを神に喜ばれるものに変えてくださる。こうして、私たちはキリストの花嫁として整えられていくのである。そして、イエス・キリストが花嫁を迎えに来てくださる日がやってくる。それを「携挙」という。

携挙が起こると、イエス・キリストを信じて死んだ全ての者が復活し、またその時生きている者は生きたまま栄光の姿に変えられ、天に引き上げられる。そして、イエス・キリストと出会い、そのまま神がおられる天に行って、そこで結婚式を挙げるのだ。今という時代は、その結婚式に備える準備期間と言うことができる。まず、イエス・キリストを救い主であると信じて救われること。そして、聖書を学び、神のみ心に沿った生き方を志して、聖霊により頼んで生きること。これが今の私たちに必要なことである。一人でも多くの方がイエス・キリストを救い主であると信じ、教会の一員となって、キリストの花嫁となりますように。

  • 2025/06/01
  • 聖霊 / 新生

御霊によって生まれるとは?

ユダヤ教の教師(ラビ)の教授方法にはいくつかあり、①質問に対して質問で返す、②大から小への議論、③知っていることから知らないことへ、などがある。これらの教授法によって、真理をより深く理解することができるのだ。イエス・キリストは、これらのラビ的教授法を巧みに用いて、弟子たちに、群衆たちに真理を説き明かされた。今回は、イエス・キリストが、ユダヤ教の神学校の校長を務めたニコデモに対して、ラビ的教授法によって真理を教えられた事例をご紹介したい。

ニコデモが、ある夜、人目を気にしながらこっそりとイエス・キリストのもとに来た。ニコデモが挨拶の言葉を述べた直後、イエス・キリストはニコデモが何を聞きたいのかをご存知だったので、「どうすれば神の国(天国)に入ることができるのか」について話された。当時のユダヤ人たちは、ユダヤ人として生まれれば自動的に誰でも神の国に入ることができると信じていた。しかし、イエス・キリストは、それを否定し、「水と御霊によって生まれる」ことが、神の国に入るための条件であるとおっしゃった。水によって生まれるとは、母の胎内(羊水)から生まれるということである。それに対し、御霊によって生まれるとは、御霊なる神(聖霊)によって超自然的に霊的に新しく生まれることを意味している。前者は誰もが既に経験していることなのでよく理解できる。しかし、後者は、経験したことがないので直ちに理解することができない。そこで、イエス・キリストは、「知っていることから知らないことへ」というラビ的教授法を用いて、その意味を解説なさった。

ヨハネの福音書 3章8節
"風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。"

私たちは、風が存在していることを知っている。しかし、風そのものを見ることはできない。では、なぜ風が存在していることがわかるのか?それは、風が吹いた時に、ゴォーという音がしたり、木の葉が揺れたりするのを感じるからだ。つまり、風そのものがどこから来てどこに行くのかはわからなくても、風が吹いた結果として影響を受けたものを見ることによってそれがわかる、ということだ。それと同じように、御霊によって生まれた人というのは、御霊の影響を受けた結果としてのその人の行いを見ることでわかるのだ。この点をもう少し詳しく解説しよう。

私たちは、イエス・キリストを救い主として信じる信仰を持った瞬間に、聖霊なる神がその人の心の内に住まわれる。これを聖霊の内住という。これにより、それまでは、生まれながらの罪の性質(原罪)しかなかったところに、聖霊による新しい性質が与えられる。そして、聖霊の働きによって、新しい性質が活発に動き始めた時、その人にかつてはあり得なかった内的変化が与えられる。例えば、今までは嘘をいくらついても何とも思わなかったのに、嘘をつく度に心がチクチクするようになった、とか、今までは自分に敵対する人を憎む心で支配されていたが、赦す心が与えられた、などである。自分の頑張りでは決して生じ得なかった心の変化が、聖霊によってもたらされる。そして、その人は、外側の行為においても、内側の性質を反映するような愛の行為が伴うようになる。これを「御霊の実」という。その人が「御霊によって生まれた者」であるかどうかは、御霊の実が伴っているかどうかで判断することができるのだ。

聖霊の内住は、紀元30年にイエス・キリストが十字架について死に、墓に葬られ、三日目に復活された50日後である「五旬節の日」(ペンテコステ)に、聖霊が降臨されてから始まった。それがすなわち、教会の誕生である。教会とは、イエス・キリストを信じて聖霊が内住している信者の集合体である。教会を形成する一人ひとりが、聖霊の導きに従って生きる時、神の栄光が豊かに現れるのである。御霊の実をつける人生こそ、神が私たちに用意してくださっている祝福の道である。共に天の御国に向かって前進しようではないか。

  • 2025/05/01
  • 昇天

イエス・キリストは、今どこで何をしているのか?

世界四大宗教といえば、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教である。これら世界四大宗教の中で、キリスト教だけが、他の宗教と決定的に異なっている点がある。それは、教祖である人物が今も生きている、ということである。キリスト教は紀元1世紀、イスラム教は紀元7世紀、ヒンドゥー教は紀元前1500年〜前500年頃、仏教は紀元前5世紀頃に始まった。どれも1000年以上前に始まった宗教なので、当然、教祖である人物は死んでいるはずである。しかし、キリスト教の教祖である、イエス・キリストだけは、今も生きているのだ。では、イエス・キリストは、今どこで何をしているのか?という疑問が当然生じる。そこで、これからその疑問にお答えしようと思う。

イエス・キリストは、紀元30年の4月6日(金)の午前9時頃に、イスラエルのエルサレムという町のゴルゴタと呼ばれている場所で十字架につき、同日午後3時頃に死なれた。その後、日没までの間に墓に葬られた。そして、三日目である4月8日(日)の朝に、よみがえられた。そして、まず婦人たちの前に現れ、十二弟子たちの前に現れ、500人以上の弟子たちの前に現れた。復活されたイエス・キリストは、40日間に渡って弟子たちの前に現れ、神の国について教えられた後、雲に包まれて天に昇って行かれた。今は、父なる神がおられる第三の天と呼ばれるところにおられ、大祭司として私たちのために執りなしをしてくださっているのだ。この第三の天というのは、私たちが生きている世界とは次元が異なるため、私たちにはそれを認識することができない。私たちが認識できないからと言って存在しないわけではない。それは、紫外線や赤外線など、人間の五感では認識できなくても、それらは事実存在しているのと同じである。

復活されたイエス・キリストは、第三の天から見えざる御手を持って、今も私たち一人ひとりの人間を救いへと導いてくださっている。また、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンたちの祈りを聞き、それを父なる神に届けてくださっている。父なる神と私たちの間に立ち、両者を繋ぐ道として、イエス・キリストは休むことなく、働いてくださっているのだ。その働きは、肉の目では認識できないが、霊の目で認識することができる。信者の心の中におられる聖霊が、主イエスの御業を感じとらせてくださり、この世のものでは味わうことができない喜びで満たしてくださるのだ。イエス・キリストは今も生きて、私たちを愛し、私たちのために最善を尽くしてくださっている。

聖書には、イエス・キリストが、将来、私たちの肉の目で見える形で地上に戻って来られると書かれている。その様子は、かつて天に昇って行かれた時と同じ有様、つまり、雲に包まれた状態で戻って来られるのだ。これは、大患難時代の最後に起こることである。大患難時代とは、イスラエルが、反キリストと呼ばれる人物と契約を結んだ時から始まり、7年間に渡って続く、世界規模の大飢饉、疫病、天変地異、世界戦争のことである。この大患難時代は、人類の罪に対する神の怒りの盃がぶちまけられる恐ろしい時代であり、世界人口の半数以上が死んでしまうと預言されている。イエス・キリストは、大患難時代の最後に、地上に戻って来られ、すべての悪を滅ぼされ、地上に神の国をもたらしてくださるのだ。イエス・キリストを信じる者は、この神の国に入り、キリストの統治の下、1000年間の時を過ごす。そして、今の天と地が過ぎ去り、新しい天と地がやってきて、そこで永遠に平安に生き続けるのだ。これがイエス・キリストを信じる者に与えられている約束、祝福である。

今の時代は、大患難時代が本当に近いと思わされる状況が整ってきている。その中にあって、極めて重要なことは、大患難時代が始まる前である今、イエス・キリストを信じて救われることである。なぜなら、イエス・キリストは、大患難時代が始まる前に、ご自身を信じる者を天に引き上げてくださると約束してくださっているからである。これを携挙という。イエス・キリストは、信者たちを携挙し、大患難時代を通過しなくても良いように守ってくださるのだ。この携挙は、それが起こる前提条件がない。つまり、今日かもしれない、明日かもしれないのだ。よって、今、イエス・キリストを信じ、救われることが、何よりも大切なことである。

イエス・キリストの何を信じれば良いか、それは福音の3要素である。

①イエス・キリストが、私たちの罪を贖うために身代わりとなって死んでくださったこと。
②イエス・キリストは、墓に葬られたこと。
③イエス・キリストは、三日目によみがえられたこと。

この3つを信じ、イエス・キリストは今も生きて、私たちのために執りなしてくださっていると信頼するなら、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのだ。 是非、今、イエス・キリストを信じて救いを受け取って頂きたい。

  • 2025/04/01
  • 復活

キリストの復活は真実か、たわごとか

キリスト教の肝心要の土台というのは、イエス・キリストは復活した、という歴史的事実である。この復活が真実か否かで、キリスト教は立つも倒れるも決まる。もしキリストの復活がたわごとであったら、12使徒をはじめ、殉教死も厭わずにキリストを宣べ伝えた世界中のクリスチャンたちは、犬死にしたことになる。また、毎週教会に通って礼拝したり、伝道したりしていることも、茶番である。

他の宗教と違い、キリスト教というのは、既に死んでいる教祖を拝んでいるのではなく、死を打ち破り、今も生きている唯一の創造主なる神を礼拝している。その神は、私たちを死と罪の束縛から解放し、私たちに朽ちないからだと永遠のいのちを与えてくださるお方である。この希望、約束が100%確実なものとして与えられているから、私たちはこの神を信じ、礼拝することができる。なぜそのように信じられるか、それはキリストの復活が真実だからである。では、なぜキリストの復活が真実であると言えるか、それは、新約聖書の復活に関する記事を読めば分かる。そこは真実の香りで満ちており、また、その後の弟子たちの激変ぶりを見れば、それは彼らがキリストの復活を目撃したから、という以外に説明のしようがない。

キリストの復活に関する記事は、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書と、4種類の福音書に、それぞれ異なる記者たちの視点から書かれている。それらを比較すると一見食い違っているように見える記述が見られるが、決して矛盾していない。それは、同じ出来事をそれぞれの視点から見て書いているので、当然生じ得る違いだ。

むしろ、全員が全く同じことを言っている方が不自然であり、口裏を合わせている可能性が高い。それぞれの記者が、それぞれが実際に見聞きした情報を書いているが故に、多少の違いがあるが、それらは全て事実であるが故に、矛盾することはないのだ。これが、真実の香りの正体である。是非、裁判官になったつもりで、復活の記事を読んでいただきたい。必ずや、この真実の香りを感じていただけるはずだ。

また、キリストの復活前後の弟子たちの変化っぷりも、キリストの復活の真実性を証明している。イエス・キリストが逮捕される時、弟子たちはイエスを見捨てて、蜘蛛の子を散らすように逃げた。その後、イエス・キリストが十字架にかけられた時、12弟子のうちその場に立ち会ったのはヨハネだけで、残りの弟子たちは隠れていた。なお、一番弟子であるペテロは、お前もイエスの仲間だろ、と責め寄られた時に、イエスのことを知らないと3度も否んだ挙句、3度目の時はそれが嘘なら呪われてもよいと言うほどだった。

そんな臆病だった弟子たちの元に、イエスを慕う婦人たちから一つの知らせが入った。それは、なんと、彼女たちがイエスの葬られた墓を見に行ったら、イエスの体がなく、天使が現れて、イエスは復活したことを知らされた、というものだった。それを聞いた弟子たちは最初、それを「たわごと」のように思った。しかし、実際に墓に行ってみると、確かにイエスの体がなかった。そして、数日後、復活したイエスが、弟子たちが集まっていた家の真ん中に突然現れたのだ。こうして、イエスは確かに十字架に掛かって死に、墓に葬られた後、よみがえられたことが弟子たちの目に明らかになった。

その後、復活したイエスは、40日間に渡って弟子たちに現れ、神の国について教えられた後、雲に包まれて天に昇って行かれた。それから弟子たちは、勇敢になり、ユダヤ議会に逮捕されることも厭わずに、また、殉教の死を恐れずに、復活したイエス・キリストを宣べ伝え続けたのである。

このように、イエスの愛弟子たちでさえ、最初は「たわごと」のように思えたイエス・キリストの復活だが、実際に死んでよみがえったイエスに出会ったことで、信じざるを得なくなった。その弟子たちの目撃証言が、4つの福音書に書かれているのだ。私たちは、この生々しい記録を見て、どのように応答するかが問われている。一つは、否定する道。もう一つは、受け入れる道。これら二つに一つしかない。中間はあり得ないのだ。

聖書は、キリストを信じるか信じないかで、永遠の運命が決まると教えている。イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目によみがえったと信じる者は、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられる。信じない者は、死後の裁きで有罪とされ、火と硫黄の燃える池で永遠に苦しみ続ける。これが全ての人間に等しく適用される霊的真理である。これは信じるか信じないかに関係なく、私たちの現実問題として突きつけられるのだ。世の中の多くの方が、この真理を知らないまま、死後の裁きの座に立つことになる。

今、このメッセージを読んでいるあなたは、神の摂理の中で導かれてこのメッセージを読んでいる。なぜなら、あなたは神に愛され、神があなたをご自身の元に連れ戻したいと強く願っておられるからだ。今、その神の招きに応答し、イエス・キリストを信じるという選びをしようではないか。

  • 2025/02/01
  • 福音

聖書の中で「最も大切な教え」とは

聖書は、とても分厚い本である。新改訳聖書2017の中型サイズで2,176ページもある。その中には、無数の大切な教え、真理が書かれているが、そのうち最も大切な教えとは何だろうか?

聖書とは、この世界、そして、私たち人間を造られた創造主なる神が、人間に語られた言葉が書き綴られた書である。その書かれた究極的な目的は、神の栄光である。つまり、神がいかに栄光に満ちたお方であり、その栄光が如何にして表されるか、ということが、聖書の最大の関心事である。この神の栄光とは、神が聖書を通して約束されたことが、その通りに成就するときに表れる。聖書の約3分の1が預言であると言われている。神は予めこのようになる、と宣言され、そして、事実、その通りのことが成就するのだ。預言が成就していく様を目撃することによって、私たちは、神が約束されたことを守られる、信頼に足るお方であること、また、約束を実行する力と権威を持っておられるお方であることを知ることができる。そして、人間がどれだけ抗おうとしても、神が宣言されたことは絶対にその通りになるのを見た時、私たちは神への畏怖の念を覚える。と同時に、このお方が約束されている祝福の約束もまた、ただの気休めなどではなく、100%その通りになると信じられるので、平安と希望を頂くことができる。

さて、私たち人間にとって、最大の関心事は、自分の将来はどうなるのか、だ。私たちは、今幸せに生きるため、そして、将来幸せに生きるために、今、色々なことを忍耐したり、努力したりしている。しかし、たとえ、どれだけ頑張ろうとも、人生が突然終わる瞬間が来る。それが「死」だ。私たちは、死という最大の問題をコントロールすることができない。食べ物に気遣ったり、適度な運動をしたりすることで、健康寿命をある程度延ばすことはできても、せいぜい100歳程度しか生きることはできない。

昨日まで元気だったのに突然事故で死んでしまうということもあり得る。そのような中で、まともな精神を保って生きるためには、死について考えないようにするか、死についての解決策を持つか、のいずれかによらなければならない。多くの方が、死について考えないように、忙しく毎日を生きておられるのではないだろうか。しかし、突如、死の問題が迫ってきた時に、恐れが襲ってきて、夜も眠れなくなるということはないだろうか。真に心平安に生きるためには、死の問題を解決するしかない。実は、聖書には、その死という最大の問題への解決策が記されているのだ。

聖書の中で、神は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9章27節)と教えておられる。そして、罪を解決しないまま死んだものは、死後のさばきの後、火の池に投げ込まれ、そこで永遠に苦しみを受けると警告しておられる。聖書が教える罪とは、単に法律に違反することに留まらず、造り主である神に背き、自己中心な生き方をすることに罪の本質がある。たとえ人を殺したことがなくても、心の中で人を憎んだ時、それは心の中で殺人の罪を犯しているのと等しい、というのが神の基準である。よって、全ての人は漏れなく、神の前に罪人であり、死後のさばきで有罪となるしかないのだ。しかし、神は、私たち人間を愛しており、一人として滅んで欲しくないと願っておられる。そこで、私たちが永遠の滅びから免れるための道を一つだけ用意してくださったのだ。それが、イエス・キリストを信じる信仰、という道である。

神が、イエスという人間となられ、全人類の罪を贖うために、十字架にかかり、罪の刑罰を身代わりに受けてくださったのだ。そして、イエス・キリストは、死んで墓に葬られたが、三日目によみがえられた。この復活によって、イエス・キリストは真の救い主であることが公に証明された。その後、復活されたイエス・キリストは500人以上の弟子たちの前に現れ、40日間に渡って神の国について教えられ、雲に包まれて天に昇っていかれた。イエス・キリストは、今は私たちの目には見えないが、生きておられ、大祭司として私たちのために執りなしてくださっている。このようなお方としてイエス・キリストを信じるなら、私たちの全ての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのだ。そして、もはや死とは滅びの門ではなく、神の国に入る祝福の門となる。やがて、キリストが地上に戻って来られる時に、私たちは、決して朽ちることのない栄光のからだによみがえり、その後、罪も死も悲しみも苦しみもない完璧な世界で、永遠に生きることができる。これが、神が約束してくださっている祝福の希望である。

この福音のメッセージが、膨大な聖書の中で、最も大切な教えであると言える。使徒パウロも、以下の聖句でこの最も大切な教えを簡潔に教えてくれている。

コリント人への手紙 第一 15章3~5節
"私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、
また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。"

この福音を信じる者は救われる。もはや死の問題で悩んだり、苦しんだりする必要は皆無である。安心して、残された地上生涯を全うすることができる。まだこの救いを受け取っていない方は、文字通り、今、イエス・キリストを信じ、罪の赦しと永遠のいのちを得て頂きたい。一度信じれば、その効果は、永遠に続く。神の栄光がかかっているので、この約束は絶対に守られる。

  • 2025/01/01
  • 救い / 信仰

よく知らずに「間に合ってます」って言ってませんか?

「あの〜、イエス・キリストを信じればあなたも救われるのですが、お話聞いてくださいませんか?」
「あ、いや、間に合ってますんで、すいません。」

クリスチャンからイエス・キリストについて話しかけられた時に、「間に合ってます」と言って断る方が少なくないだろう。しかし、本当に「間に合っている」と自信を持って言えるか?と聞かれたら、なんとなく、という人が大半ではないだろうか。実は、全然「間に合っていない」というのが現実である。その理由をこれから解説したい。

私たちは皆、いつか必ず死ぬ。これは紛れも無い真理であり、誰も疑う人はいないだろう。では、死んだらどうなるのかについて明確な答えを持っているだろうか?もし明確な答えがないのだとしたら、あなたは「間に合っていない」と言わざるを得ないだろう。死んだらどうなるのか、私たちは誰一人として実際に見たことがないので、世の中には様々な考え方がある。しかし、「真実はいつも一つ」なのだ。では、どうやってその一つの真実を見分けたら良いのだろうか。それは、命と死についての真実を知っており、絶対に真実しか口にしない人の話を聞くしかない。しかし、そんな人は存在するだろうか?私たち人間の知識は有限であり、また、間違い得る存在である。自分は絶対に真実であると言う人がいたら、むしろ疑った方が良いだろう。ところが、全知全能であり、絶対的に真実なお方が存在するのだ。それが、【神】である。

神と言うキーワードが出てきただけで拒絶反応を示す人もいるだろうが、あなたが知っている神と、私がここで言っている【神】は全く別の存在である。私が言っている【神】とは、この世界の第一原因者であるお方であり、創造主であるお方のことである。先ほど「真実はいつも一つ」と言ったように、この世界が存在している原因は一つしかない。巷では進化論があたかも真実であるかのように語られているが、ビッグバンが起こる前は何があったのか、どうやって無から有を生じさせたか、納得のいく説明はなされていない。因果関係で考えた時に、たとえ私たちの常識に反しようが、この世界は目に見えないものによって造られた、と考える以外に合理的な説明は不可能である。つまり、私たち人間より高次元の存在によって私たちは造られたが故に、その存在を私たちは認識することができないだけであり、事実、その存在はこの世界が存在していることによって証明されているのだ。

ここで野球盤を思い出して欲しい。野球盤とは、平面で行う野球だ。ボールは常に平面の上を動いている。しかし、消える魔球というのがある。それは、ホームベースの直前に穴が空いて、そこにボールが落ちることを言う。つまり、2次元の世界から3次元の世界に移動したことによって、2次元の世界からは消えたように見えるのだ。2次元の世界からは消えたように見えても、ボールは存在しなくなったわけではない。これと同じように、私たちが生きている世界よりも高次元の存在は、私たちには認識することができないが、だからと言って存在していないとは言えない。聖書は、創造主である【神】は霊的な存在であると教えている。その【神】が、ことばによって、無から有を生じさせてこの世界をお造りになったと教えている。これは私たちにとって超自然的に感じられるが、しかし、事実、私たちに見える世界が存在していることが、そのことが真実であることを雄弁に物語っている。

聖書は、【神】がこの世界を造り、私たち人間を造り、私たちに命を与えたと教えている。この【神】は全知全能であり、このお方に不可能なものは何もない。また、このお方は絶対的に義であり、聖(罪や悪と無縁)であり、真実なお方である。

【神】はそのご性質の故に、嘘偽りを言うことが不可能である。その【神】が仰ることは絶対であり、捻じ曲げられることは決していない。この【神】のことばが書き綴られているのが、聖書である。聖書は、【神】が初めに造られた世界には罪や死はなかったと言う。

しかし、最初の人間アダムが神の命令に違反したために、死がこの世界に入り込み、人を含む生き物は全てやがて死ぬ存在となった。アダムとエバの子孫である私たち人類は、生まれながらにアダムの罪の性質を持って生まれ、罪を犯さずには生きられない存在となった。そして、罪を抱えたまま死んだ人間は、一人残らず【神】のおられないところ、すなわち、いわゆる地獄というところで苦しみながら永遠の時を過ごすのだ。これが、私たち人間が受け入れなければならないバッドニュースだ。

しかし、【神】は、私たち人間を愛しておられるので、私たちが地獄に行くことを望んでおられない。そこで、全人類の罪を贖い、【神】の国に入るための道を用意してくださった。その「道」というのが、イエス・キリストである。

イエス・キリストは、【神】ご自身が罪の全くない人間として処女マリアから生まれたお方である。イエス・キリストが、私たち全人類の罪を贖うために、本来私たちが受けなければならない罪の刑罰を身代わりに受けてくださり、十字架にかかって死んでくださったのだ。そして、墓に葬られた後、イエス・キリストは三日目に蘇られた。この蘇りのイエスを、500人以上の弟子たちが目撃している。その目撃証言が、新約聖書の中で書かれている。このイエス・キリストは、復活してから40日間地上に滞在された後、雲に包まれて天に昇られたため、今私たちの目には見えない。しかし、今も生きて、天で大祭司として私たちのために執りなしてくださっている。

このようなお方としてイエス・キリストを信じ、そのご人格に信頼した者は、罪が全て赦され、永遠のいのちが与えられる。つまり、一度死んでも、イエスが復活されたように、復活することができるのだ。そして、将来、【神】や他のイエスを信じる人たちと共に、罪も悪も悲しみも苦しみも嘆きもない、完璧な世界で永遠に生きることができる。これが、【神】が聖書を通して私たちに伝えてくださっているグッドニュースである。【神】は、全知全能であり、真実なお方なので、この約束を果たす能力があり、ご自身の栄光にかけて、必ず約束を成就される。このグッドニュースを受け取り、罪の赦しと永遠のいのちを自分のものにした人こそ「間に合っている」人なのだ。

ヨハネの福音書 3章16節
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"

是非、新年のこのタイミングで、イエス・キリストを信じ、真に「間に合っている」人になって頂きたい。

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