2026年エシュコル掲載メッセージ



  • 2026/06/01
  • 霊的備え

いちじくの木のたとえ
―しるしを読む目と、揺るがぬ望みー

「それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て、すでに夏が近いことが、おのずから分かります。同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは神の国が近いことを知りなさい。」
(ルカ21:29〜31)

イエスはこの箇所で、自然界の季節のしるしを用いて、神の国の到来を語られた。いちじくの木は、他の木々が枝を枯らしたままの冬の間も青々とした葉を保つ常緑樹とは異なり、秋に葉を落とし、春に新芽を吹かせる。だからこそ、その葉の芽吹きは夏の確かな予告となる。イエスが「これらのことが起こるのを見たら」と言われたのは、目を開いてしるしを読め、という招きである。

今日の世界に目を向けるとき、心が騒ぐような出来事が絶えない。国々の間の緊張、自然災害、社会の道徳的な崩壊、そしてイスラエルをめぐる情勢。これらは単なる歴史の偶然ではなく、聖書が預言してきた終わりの時のしるしと重なる。携挙の時が迫り、その後に続く大患難時代もまた、遠い未来の話ではなくなりつつある、と感じざるを得ない。

しかし、ここで大切なことがある。しるしに敏感であることと、しるしに振り回されることは、まったく異なるということだ。

パウロはピリピ4:6〜7でこう記している。 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

世の情勢が激しく動くとき、私たちはつい目の前の波に目を奪われる。ペテロがイエスに向かって水の上を歩きながら、風を見て恐れ、沈みかけたように(マタイ14:30)。しるしを見る目は必要だが、しるしを凝視するあまり、しるしの指し示す方を見失ってはならない。

神の時は遅れない。ハバクク書2:3にはこうある。 「この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」 神は最善のタイミングをご存知であり、そのご計画は人の思いをはるかに超えている。私たちが「まだか」と感じるその時間さえも、ペテロが語るように「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」神の忍耐である(Ⅱペテロ3:9)。

ならば、今この時をどう生きるべきか。一つは、伝道の緊急性を胸に刻むことである。身近な一人ひとりへの言葉、祈り、証し。それを明日に先延ばしにする理由はない。もう一つは、変わらない御言葉に錨を下ろすことである。時代のニュースは日々変わるが、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(ルカ21:33)とイエスは続けて言われた。この御言葉こそ、揺れ動く世界の中で私たちの足を固める岩盤である。

いちじくの葉が芽吹くのを見て、農夫は慌てふためかない。夏が来ることを知り、静かに備えをする。私たちもそのように、しるしを見る霊の目を開きながら、一喜一憂することなく、キリストにある平安の中に立ち続けたい。主の来臨はしるしによって近いことが知らされている。だからこそ今日も、目の前の一人のために祈り、仕えることができる。

  • 2026/05/01
  • 聖霊 / 福音の種まき

「地の果てまで」
—聖霊の力に生きる証人として

イスラエルから約一万キロ——。
地球をほぼ四分の一周するその距離を隔てた日本に、イエス・キリストの福音が届いています。これは、いったい何を意味するのでしょうか。

宣教師たちの優れた語学力でしょうか。あるいは、優れた組織力や財力でしょうか。いいえ、違います。福音を伝えた人々の背後に、聖霊なる神が働いておられたからです。聖霊こそが、一人ひとりの信者に力を与え、キリストの証人として立たせてくださいました。

その召しに信仰をもって応答した人々がいました。彼らは、命の危険をも顧みず、イエス・キリストが罪と死の束縛から解き放つ唯一の救い主であることを宣べ伝えました。その「命のバトン」は途絶えることなく、約二千年にわたって繋がり続け、ついに「地の果て」に住む私たちのもとに届いたのです。 これを奇跡と呼ばずして、何と呼ぶことができるでしょうか。

伝道は「頑張り」ではない

ペンテコステを記念するこの季節、私たちは改めて問われます。「あなたはキリストの証人として歩んでいますか」と。

しかし正直なところ、「伝道」という言葉を聞くと、身構えてしまう方も多いのではないでしょうか。何か特別な技術が必要なのではないか、上手く話せなかったらどうしよう——そのような思いが先に立ち、気おくれしてしまう。その気持ちは、よく分かります。

しかし使徒1:8は、明確に語っています。証人としての力の源は、私たち自身の熱意でも才能でも努力でもない。「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受ける」のです。

キリストの証しは、人間的な頑張りによって達成するものではありません。私たちのうちに住んでくださる聖霊が、その働きをなさるのです。

心から溢れてくるままに

では、私たちは何をすれば良いのでしょうか。 答えはシンプルです。キリストから受けた恵みを、喜んで語ることです。

日々の生活の中で体験している祝福、試練の中で支えられた幸い、御言葉によって慰められた経験——そういったことを、出会う人々に、心から溢れてくるままに語れば良いのです。特別な演説を準備する必要はありません。

「何を語るべきか」は、聖霊がその時その時に教えてくださいます。日々、御言葉を心に蓄えていれば、必要な時に自然と思い起こされてきます。それもまた、聖霊の働きにほかなりません。

主イエスもこう約束されました。「何をどう話すかは、その時に示されます。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって語られるあなたがたの父の御霊です」(マタイ10:19〜20)。この約束は、今日の私たちにも生きています。

「地の果て」からの応答として

二千年前、十一人の弟子たちがエルサレムで聖霊の満たしを受けた時、彼らは誰も、その福音が日本という島国にまで届くとは思っていなかったでしょう。しかし聖霊は、人間の想像をはるかに超えて働かれました。

今、その「地の果て」に立つ私たちは、バトンを受け取った者です。そして同時に、次の走者にバトンを渡す者でもあります。

私たちのうちにおられる聖霊の力を、信じましょう。そして体験しましょう。日々の歩みの中で、溢れてくる恵みを語り出す時、聖霊はすでに働いておられます。

ペンテコステの恵みは、過去の出来事ではありません。今日も、あなたの上に。


  • 2026/04/01
  • 信仰 / 復活

「百聞は一見にしかず」?― 見ないで信じる者は幸いです ―

私たちは普通、「見たら信じる」と考える。だからこそ、「百聞は一見にしかず」ということわざがある。しかし聖書は、これとは逆のことを語っている。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる者は幸いです。」(ヨハネの福音書20章29節)

なぜそのように言えるのだろうか。それは、物質世界と霊的世界の違いにある。
物質世界は、慣性の法則、運動の法則、作用反作用の法則をはじめとする物理原則に従って存在している。聞いただけでは信じられなくても、実験して確かにその通りになったことを確認することで、それを信じることができる。

例えば、鉄球と羽を同時に落としたら、どちらが先に地面に落ちるだろうか。多くの人は、鉄球の方が先に落ちると考えるだろう。しかし、それが真空状態ならどうだろうか。実は、真空の中で鉄球と羽を同時に落とすと、二つは同時に地面に到達するのである。このような直感に反する事実を実際に見ると、「百聞は一見にしかず」ということばの意味がよく分かる。物質世界では、見ることによって理解が深まるのである。

それと同じように、霊的世界にも霊的原則が存在する。しかし霊的世界では、「信じること」が理解の入り口である。なぜなら、霊的原則は、神のことばをその通りだと信じる信仰によって理解できるものだからである。

今の時代、イエス・キリストを救い主と信じる者のうちには、聖霊が住んでくださる。この内住の聖霊が、私たちに霊的真理を理解する力を与えてくださる。信仰を持つまではよく分からなかった聖書が、信仰を持ってから学ぶと驚くほど理解できるようになった、という経験をしたクリスチャンは少なくない。聖書を神の誤りのない御言葉として信じ、学び、それに従って歩むとき、御言葉が確かに真実であることを実際に体験するのである。

2026年という今の時代は、イエス・キリストが復活してから約2000年が経過している。私たちは、イエス・キリストが復活したその瞬間を自分の目で見ることはできない。しかし、確かに復活したと証言する弟子たちのことばを聞き、それを信じる者は幸いである。
聖書はこう語っている。
「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」 (ローマ人への手紙 10章17節)
神は、イエス・キリストを信じる者の罪をすべて赦し、永遠のいのちを与えると約束してくださっている。これもまた霊的原則の一つである。

では、何を信じればよいのだろうか。それは次の三つである。
① イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために身代わりとなって十字架で死なれたこと。
② イエス・キリストは墓に葬られたこと。
③ イエス・キリストは三日目によみがえられたこと。
このようなお方としてイエス・キリストを信じ、このお方に信頼する者は、罪と死の束縛から救われる。「信じる者は救われる」とは、この意味において真実なのである。

神は今、私たち一人ひとりに語っておられる。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
どうかイエス・キリストを信じ、神が約束された永遠のいのちを受け取っていただきたい。

  • 2026/03/01
  • 新しい始まり / 希望

神が備えた見えざる道を歩む

三月を迎えると、冷たい風の中にも確かな春の気配が感じられるようになる。固く閉じていた蕾はふくらみ、土の下では新しい命が静かに芽吹きの時を待っている。目に見える変化はわずかであっても、確実に季節は前へ進んでいるのである。

人生にも同じような時がある。状況は変わらず、先が見えないように思えることがある。しかし、水面下ではすでに新しい備えが始まっていることを、私たちはしばしば後になって知るのである。思いがけない出会い、予期せぬ出来事、遠回りに見えた経験。それらが一本の道としてつながっていたことに気づく瞬間がある。

神は歴史を偶然に委ねてはおられない。時代ごとに御計画を進めながら、確かな目的へと導いておられる。人の目には荒野のように見える場所にも、神は道を備えられる。乾いた地にも流れを起こされる。人の力では切り開けない場所にこそ、神の御手は働くのである。

私たちはしばしば、自分で道を作らなければならないと考える。しかし信仰とは、自ら未来を設計することではなく、すでに備えられている道を発見し、その一歩を踏み出すことである。道が見えてから歩くのではない。神が備えておられると信じるからこそ歩み出すのである。

三月は、新しいことを始めるのにふさわしい時である。大きな決断でなくてもよい。心を神に向けること、祈りを始めること、聖書を開くこと、礼拝の場に足を運ぶこと。それらは小さな一歩に見えて、神の御計画の中では大切な前進である。

未信者の方にとっても、人生は決して偶然の連続ではないという視点は希望となるはずである。今は意味が分からない出来事にも、やがて光が当てられる時が来る。荒野と思える場所が、後に振り返れば新しい始まりの地点であったと知る日が来るのである。

神は今も新しいことを始めておられる。その働きは静かであっても確実である。春の芽吹きがそうであるように、神の備えもまた、見えないところで進んでいる。 この春、それぞれに備えられた道を信仰によって歩み出したいものである。その歩みそのものが、神の栄光を映し出す証しとなるのである。

  • 2026/02/01
  • イエス・キリスト / 福音

人生を照らす光の正体とは?

親が敷いてくれたレールに乗って生きてきた子ども時代から、大人になり、自分の人生は自分で切り拓いて行かなければならなくなった時、まるで宇宙空間に一人放り出されたような孤独を感じたことがあった。そのような青年期を経た後、人生の目標を定め、その目標が正しいと信じ、その実現に向けて生きてきた。しかし、人生の試練に直面するたびに、その目標は本当に正しいのだろうか、自分を幸せにしてくれるのだろうか、と不安になる。それでも、その道を歩み続けるしかない。この世の少なくない人たちがそのような中を必死に生きているのではないだろうか。筆者は33歳の時に、まさに五里霧中と言える人生に一筋の光が差し込んだ。進むべき方向を求めてあれでもないこれでもないと思いあぐねていた探究の日々に終止符が打たれ、生きるべき道が明確に示された。その時、将来への不安が吹き飛んでいき、確信を持って、平安の中を歩む人生のスタートを切ることができた。それから約8年が過ぎ、その確信は益々強められ、手応えを感じながら生きることができている。

  33歳の時に感じた光の正体は、イエス・キリストというお方だった。このお方は、霊の目に覆いがかかっていた筆者に介入してくださり、その覆いを取り除けてくださった。そして、真理の光で照らしてくださったのだ。といっても、何か超自然的な現象が起こったのではない。私たちの目には偶然とも思える出来事の連続の中で、そのように導いてくださったのだ。これを神の見えざる御手、あるいは、摂理という。この世界を造られた創造主なる神は、私たち一人ひとりを見えざる御手をもって導いてくださっている。そのことに気づいて神の示す方向に向かうか、そうでないかで、行き先が全く異なる。神は全ての人をイエス・キリストを通して、ご自身の元に立ち返るように招いておられる。その招きに応答したものには祝福が約束されている。

聖書は、神の元に帰る「道しるべ」である。聖書に書かれている神の御言葉に従って歩むことで、私たちは神に近づくことができる。かつて神が雲の柱、火の柱となってイスラエルの民の先頭に立って約束の地へと導かれたように、聖書の御言葉が私たちを神の御許へと導いてくれるのだ。御言葉を学び、御言葉に従って生きることが、私たち人間に与えられた祝福の道である。そのことに気づいたのが33歳の時だった。聖書には、私たち人間がどこから来て、どこに行こうとしているのかが書かれている。今までの人類歴史がそうであったように、これからの未来も聖書に書かれている通りに進んでいく。

  聖書は、まもなくイエス・キリストが再びこの世に戻ってくると教えている。その時、イエス・キリストを救い主として信じているか、そうでないかで、人類は二分される。前者は神の国に、後者は火と硫黄の燃える池に行くことが定められているのだ。この厳粛な真理を前にどのように応答するかが今、全人類に問われている。まだイエス・キリストを信じていない方は、今、このお方を信じる決断をし、永遠の祝福を受け取ろうではないか。信じる内容は次の3つである。
①イエス・キリストは私たちの罪のために死なれたこと。
②イエス・キリストは死んで墓に葬られたこと。
③イエス・キリストは三日目によみがえられたこと。
この3つを信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことができるお方であると信頼した者は、全ての罪が赦され、永遠のいのちが与えられる。そして、将来、完璧な理想郷である神の国に入ることができる。是非、共に神の道を歩み、平安と喜びの中を生きていこう。

  • 2026/01/01
  • イエス・キリスト

光は闇を駆逐する

新年明けましておめでとうございます!
年の初めに、この世界の「はじめ」に思いを馳せたいと思います。創世記1章1節に「はじめに神が天と地を創造された。」という言葉があります。この「はじめ」とは、被造世界が生まれた時のことを指しています。創造主なる神は、物質世界が全くないところに、「ことば」によって次々と物質を生み出し、この世界を創造されました。私たちにとっては、この「はじめ」こそが全てのはじめだと思いがちですが、更なる「はじめ」があるのです。それが、ヨハネの福音書1章1節の「はじめ」です。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という御言葉にある「初め」とは永遠の昔のことです。被造世界が出来るより前、神しか存在していない「はじめ」のことです。

創造主なる神は、何かによって造られることなく、ご自身の力によって永遠の昔から存在しておられます。そして、その神は三位一体の神です。「父、子、聖霊」の3つの位格(人格のようなもの)において存在している唯一の神です。その第二位格の子なる神のことを、この聖句では「ことば」と表現しています。「ことば」なる神が、ことばによってこの世界を造られたのです。この「ことば」こそ、命の源であり、私たちを照らす光です。この「ことば」なる神こそ、神が人となられたイエス・キリストです。

イエス・キリストは、いのちを造られたお方であり、このお方のうちにいのちがあるので、ご自身を信じる者に永遠のいのちを与えることがお出来になります。イエス・キリストは、世の光として、この世の闇を駆逐されます。

私たちが生きている今の世界を見ると、闇が支配しているように見えるかもしれません。しかし、それは一時的なことであり、光であるイエス・キリストが再びこの地に来られた時に、闇は消え去ります。私たちはイエス・キリストにあって圧倒的な勝利者とされていますから、恐れる必要はないのです。

イエス・キリストという希望の光に目を向けた時、私たちの心から恐れは消え去ります。それは、真っ暗な部屋に電気をつけた時に、闇が消え去るのと同じです。イエス、キリストを心に迎えた者は、そのように恐れから解放されるのです。2026年も皆様の心の中にイエス・キリストという光が輝き、祝福に満ちたものとなりますように。

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