神様の恵み(証し)

  • 2021/12/01

イエス・キリスト、ご自分のいのちをくださった方


広島平和教会 責任役員 新谷美智雄

15歳の時、同じ陸上部の友人に誘われて、教会の伝道集会に出席しました。そこで、神は愛であるというメッセージを聞いて、胸が熱くなり、心の中に明かりが灯った気持ちになりました。

15歳で洗礼を受けて、教会の行事に参加することがクリスチャンの責任と思い、集会にはなるべく出席しました。後に、礼拝の司会や、聖歌隊にも参加することが許され、多くの伝道集会や聖会で、有名な牧師先生の話を聞いて感動しましたが、自分が教会の奉仕をすることで神の平安が与えられると思い、教会生活を送っていました。イエス・キリストが自分の罪とどのような関わりがあるのかがよく分かりませんでした。

今年の教会のテーマ(信仰の本質)は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」という、ヘブル人への手紙の聖句です。以前私は、この中で特に、「ご自分の前に置かれた喜びのために、」という意味がわかりませんでした。わたしは聖書に書いてある字義通りの霊的解釈を学ぶのではなく、いつも自分の日常で感じている感覚によって聖書を捕らえていました。

しかし、19歳の時,雨の日の夜に、車で右折した時、自転者が走って来て接触し、相手の方は頭を打って病院に運ばれました。この事故によって人の命は、自分の力ではどうにもならないことを知りました。私は、この世での私の人生は終わったと思いました。病院の椅子に座って、初めて本気でイエス・キリストの名によって祈りました。

自分はどうなってもいいので、あなたに信頼します、どうか相手の方の傷を回復させてください。自分が犯した罪を赦してくださいと祈りました。その時、心の中に「汝の重荷を主にゆだねよ、さらば我、汝を助け給わん。」と言う言葉が心の中に響きました。そして、喜びと共に平安が与えられ、その言葉にすべてを預けました。相手の方は数か月後に退院されました。このことを通して、聖書の神は、罪の苦しみを共に負ってくださり、霊的な祝福の中に、わたしを入れてくださる神であることを経験しました。悔い改めて、イエスに信頼する者には、ご自分の命を与えてくださり贖って、ともに喜んでくださることを知りました。

イエス・キリストを信じて、今年も何十回目かのクリスマスを迎えます。 神の愛に包まれて今日まで来させていただいたことを感謝し、心の底からの感謝と讃美を、私の主、イエス・キリストにお捧げしたいと思います。

   
  • 2022/05/01

わたしの愛する広島


広島平和教会 責任役員 新谷和子

「ヤベツは彼の兄弟たちの中で最も重んじられた。彼の母は、『私が痛みのうちにこの子を産んだから』と言って、彼にヤベツという名をつけていた。 ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。』神は彼の願ったことをかなえられた。」 (歴代誌第一 4章9~10節)

私はヤベツという人について、今年のテーマ聖句として取り上げられるまでは、全く知りませんでした。Ⅰ歴代誌4:9~10を読み返しても、彼に関する詳細な情報は得られません。ただ、『彼の母は、私が痛みのうちにこの子を産んだからと言って、彼にヤベツという名をつけた。』という事で、「ヤベツ」という名には、「痛み」「悲しみ」という意味がある様です。

普通、子供の誕生は喜ばしいものなのに、なぜそのような名前を付けたのかと思いますが、旧約聖書を読んでみると、この様な例がよく見られます。視点を変えて見ると、ヤベツの母は、自分の痛みや悲しみを赤裸々にイスラエルの神(ヤハウエ)に告白し、神の憐れみを請うたのではないかと思います。そして、神にすがるしかない状況下で、神に全幅の信頼をおく事で、今の状態から解放され、幸いが与えられる様にと祈ったのではないかと思いました。

私は、広島の地で生まれ育ちました。そして今の教会の近くの小学校や中学校に通いました。広島は、原爆で焼け野原になりましたが、唯一この地区は、比治山の山陰で助かりました。それ故、皆が戦後直ぐに住み始めたせいか、雑多に家々が建てられており、私が住んでいた家も長屋のように隣と壁一枚で繋がっていました。道も狭くて、細い道がくねくねと迷路のように沢山ありました。その当時は、皆が生きる事だけを考えていて、貧しいのは当たり前で、別に恥ずかしいという事もなく、一生懸命に生きていた様に思います。

近所には原爆で顔にやけどを負った女性もおられましたが、子供ながら特に気に留める事もなく、過ごしていました。ご近所は仲が良くて、それなりに助け合っていたようです。

私の母は、時々夜中に大きな叫び声をあげました。私はびっくりして飛び起きていましたが、きっと夢の中で焼夷弾が落ちて来るのを見たのかなと思っていました。母から戦争の話は聞いた事がありません。私も多分母のお腹にいた時にそのような母の叫び声を聞いていたせいか、暗闇恐怖症があります。今そのような子供時代の色んな事が蘇って来ました。戦後の広島の復興の力は物凄いです。今の広島は、綺麗に整備されて、見違えるほど美しい町になっています。この教会も土地開発で少し移動しましたが、新しい教会が建ちました。

私達の教会の歴史を振り返ると、1928年から始まって今年で94年になります。凄い歴史だと思います。戦前、戦後と大変な時代を通って今なお続いているのは、神様の守りがあったからです。また素晴らしい信仰者もいらして、継承されて来たお蔭です。この平和教会は、ある3家族が集まって集会を持たれたところから始まっています。その中の中谷長老(私達の聖歌隊の指揮者であった方のお父様)がこの教会を平和という名前が良いと言われて、広島平和教会となったように聞いています。原爆で焼け残ったこの町に、広島平和教会が今も建ち続けているのは、神様のなさっている業です。また私がこの教会に導かれたのも何か意味がある事と受け取っています。神様にとって全ての事に偶然はないはずですから。

実際、今に至るまでには、沢山の神様の摂理的な御手の働きがありました。私達がにっちもさっちも行かない時、必ずどこからか助けが与えられて、持ちこたえて来られたからです。 また霊的にも一新されました。ハーベスト・タイムに出会い、それから広島での聖書塾、中川先生が牧師となられ、森田伝道師の按手式に至るまで、これらの事を誰が想像できたでしょうか?

『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。』とヤベツは祈り、神様は彼の願ったことを叶えられた。私達も何度か教会存続の危機がありました。その苦難を通して、今は神様にある幸いを味わっています。神様は逆転劇を起こされる方です。この世で起こる事も神様の視点で見るならば、神の国に入る準備であり、私達を訓練されている1コマかなと思います。

信じている神様がどんな方なのか、その偉大さをもっともっと知り、この方と共に歩んでいる喜びで日々満たされたいと思っています。まだまだこれからですが、自分の偏狭的な考え方、自己中心的な価値観から解放されて自由になり、御心のままに進んで行けたらと思います。

イエス様が愛して下さったように、私達も愛し合い、その絆が広がっていくように願っています。苦難の中から立ち上がった広島の町、また倒れる寸前だったこの広島平和教会も沢山の方々の支援を受けて、復興しています。私には、残されたものという意識が強く神様から与えられていて、原爆で残されたこの地区、そこに建てられた教会、その教会に僅かですが残された私達、その使命について考えます。ただ神様に従って行くのみですが、神様がこの一年も祝福で満たして下さり、地境が広がって行きます様に‼、と祈ります。

神様に栄光があります様に‼

単 立 広 島 平 和 教 会

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