- 2023/03/01
- イエス・キリスト
真のスーパーヒーロー
全人類を死と罪の束縛から解放する救世主!と聞くと、さぞかし
ハリウッド映画に出てきそうなスーパーヒーローを思い描くかもしれない。事実、紀元1世紀のユダヤ人たちは、自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれる救い主(メシア)が、栄光の王として目の前に現れ、直ちに敵を滅ぼし、メシア的王国を樹立されると期待した。そして、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と語った時、ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ついにメシアがやってきたと喜び、ヨハネの元に来て、彼から洗礼を受けていた。しかし、そのメシアとして現れたイエスという人物は、皆が期待した「王らしい」姿ではなく、ごく平凡な「普通の」ユダヤ人だった。しかも、貧しい家庭で、大工の息子として生活していた人だった。そのイエスが、実は神の子であり、聖書で約1500年に渡ってその登場が預言されていたメシアであるとは信じられず、多くのユダヤ人がイエスにつまずいた。なぜ神は、ユダヤ人たちが期待するような姿でイエスを登場させなかったのだろうか。もし、イエスがスーパーヒーローとして輝かしく現れていたら、もっと多くのユダヤ人がイエスをメシアであると信じたのではないだろうか。実は、イエスが、ユダヤ人たちの慕うような見栄えではない姿を取られたのには、深い理由があるのだ。
神は、愛なるお方であり、罪人である私たち人間を救いたいと願っておられる。と同時に、神は、義であり聖なるお方であるため、罪人をそのまま受け入れることができない。それゆえ、人間を救うためには、まず罪を解決しなければならない。罪を解決するためには血を流す必要がある。なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。いのちを贖うためには、いのちの代価を支払わなければならない。これが、神の義である。しかし、罪人の血をいくら流しても、それは全人類の罪の贖いにはならない。これは、返済できないほど借金まみれになっている人が、自分の借金も返せないのに、他の人の借金を返せるはずがないのと同様である。罪のない完璧な人間の血を流すことによってのみ、全人類の罪を贖うことができる。しかし、私たち人間は全て、アダムが犯した罪の性質を遺伝的に継承しているため、その資格を持つものは一人としていない。
そこで、神ご自身が、聖霊の力によって、罪を持たない完璧な人間イエスとして、乙女マリアから超自然的に生まれてくださったのだ。イエスは、罪を一回も犯すことなく生涯を過ごし、罪のなだめの供え物として、ご自身のいのちを捧げてくださった。
この受難のしもべとしての役割を果たす上で、スーパーヒーローのような輝かしい姿は必要ない。むしろ、ごく平凡なユダヤ人の姿を取る必要があった。なぜなら、イエスがバプテスマのヨハネの洗礼を受けられた時、イエスは罪人と一体化してくださったからだ。イエスは、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられた。そして、自らを低くして、十字架の死にまで従われた。ここに、イエスの謙遜が現れている。この完璧な従順のゆえに、父なる神は、このお方を高く上げられて、すべての名にまさる名を与えられた。これが、メシアの初臨の御業である。初臨があれば、次に再臨がある。再臨のメシアは、栄光に輝く王の姿を取って来られる。つまり、紀元1世紀のユダヤ人たちが思い描いたメシア像は、実は再臨のメシアの姿だったのである。彼らは、栄光の前に苦難を通過しなければならないことを知らなかった。それゆえ、イエスの初臨の姿につまずいてしまったのである。
イザヤ書53章を見ると、受難のメシアの姿が生々しく描写されている。それはまさにイエスの姿そのものである。イエス・キリストは、イザヤ書53章の預言通りに、私たち全人類の罪を贖うために、身代わりとなって十字架にかかってくださったのだ。罪に対する神の怒りが全て、十字架上のイエスの身にぶちまけられたので、私たちは罪赦され、平安が与えられ、癒される土台が完成したのである。あとは、イエス・キリストを救い主であると信じる信仰によって、その祝福を受け取るだけである。私たちが信じるべき福音の内容は次の通りである。
「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」(コリント人への手紙 第一 15章3~4節)
このことを信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことのできる救い主であると信頼した時に、私たちは罪赦され、永遠のいのちが与えられるのである。まだ、この救いを受け取っておられない方は、今この瞬間に受け取って頂きたい。そして、共に再臨のメシアが、栄光に輝くスーパーヒーローとして来られるのを待ち望もうではないか。