- 2021/12/01
- 創造論
本当のような嘘の話と、嘘のような本当の話
「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1章1節)
聖書は、その膨大な記述の一番最初に、神が天と地を創造されたと宣言している。つまり、天地万物の創造主である神がおられる、というのが聖書の主張であり、その前提の下に聖書は書かれている。しかし、日本に生きる私たちが学校で学ぶ進化論は、創造主なる神がいない前提で論じられているため、この主張と真っ向から対立する。この世界は、創造主がいるのか、いないのか、二つに一つである。私たちはこの究極的な問いに対して、どちらかの答えを選ばなければならない。なぜなら、その答えが私たちの永遠の運命を左右するからである。
聖書は、その原典において、創造主なる神が人間に語られたことばが誤りなく記されていると言われている。その聖書には、人は死後、神の裁きを受け、有罪となった者は、火と硫黄の燃える池で永遠に苦しむことになると書かれている。そして、全ての人は罪人であり、永遠に滅ぶほかない存在であると書かれているのだ。しかし、イエス・キリストを救い主であると信じる者は罪赦され、神の裁きで無罪となり、永遠のいのちが与えられるのだ。これが本当のことだとしたらどうだろうか。誰が永遠の滅びを選ぶだろうか。当然全ての人が、イエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得る方を選ぶだろう。しかし、この話が本当のことであるとは到底思えない、作り話としか思えないというのが、日本人の99%である。
では、真理は多数決で決まるのだろうか。辞書によると、真理とは、いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道のことである。つまり、真理とは、客観的な事実であって、多数決で決まるものではない。しかし、私たちは、他の圧倒的多数が信じていること、あるいは、有名な大学の教授や研究者などの権威ある者が発見したことを真理だと思う傾向がある。その代表格が進化論だと思われる。学校やテレビで、進化論が真理であるかのように教えられ、進化論を前提とした話が展開されている。
しかし、進化論は、ただの仮説でしかないということをご存知だろうか。「種の起源」で進化論を提唱したダーウィン自身が、その著書の中で、進化論は、種と種をつなぐ中間種の化石が後に発見されることを前提にしている仮説であることを明記している。ダーウィンが生きていた19世紀後半は、まだ発掘技術が未熟であった。それゆえ、将来、地質学が進歩し、発掘技術が進めば、必ず中間種の化石が発見されるに違いないと彼は信じていた。しかし、2022年になった今でも、中間種の化石は一つたりとも発見されていない。それどころか、進化論では説明できない化石が無数に発見されている。
例えば、進化論では、化石は生き物が死んで、その上に塵が積もって、長い時間かけて埋められて出来ると教えられている。その塵が何千万年と積もって地層を形成すると言う。それゆえ、ある化石が発見された時、その地層の年代から、その生き物が生きてきた年代を推定している。しかし、その何千万年もの地層を縦に貫く「木の化石」が発見されている。これを進化論の理論で説明すれば、この木は何千万年もの間立ち続け、塵によって埋められたことになる。そんなことはあり得るだろうか?また、ある魚が別の小魚をまさに今飲み込もうとしている瞬間を切り取った化石が発見されている。そして、極め付けには、恐竜の足跡と人間の足跡が並んでいる化石が発見されている。恐竜は、人間が登場する遥か昔に絶滅しており、人間と恐竜が同じ時代に生きているなどあり得ないはずである。しかし、実際にそのような化石が発見されている。また、北京原人やネアンデルタール人などの化石は、捏造であることが明らかにされている。これらは完全に人間の化石か、あるいは完全に猿の化石であったり、または、何キロも離れたところに点在している化石を寄せ集めて一つの個体だと説明しているものであったりしているのだ。もはや進化論は完全に崩壊している。
それに対し、聖書は、化石の存在、地層の形成について、単純明快な回答を与えている。それがノアの洪水である。創世記6〜7章に、地球規模の大洪水が起こり、全ての山が水に覆われたことが書かれている。そして、箱舟に乗った8人と生き物たちを除き、地上に生きている全ての人間、生き物が死に絶えたと書かれている。つまり、この時、あらゆる生き物が洪水によって土砂と共に流されて埋められ、一気に強烈な圧力がかけられて、数ヶ月以内という短期間のうちに化石化したのである。
洪水によって最初に埋められたのは水の中に生きている生き物、魚類である。次に埋められたのは水辺に生きている両生類である。
そして、陸地に生きている生き物と続く。知能の発達している人間は、最後まで洪水から逃れて山に登るため、最後に埋められる。よって、地層の最下層にいる化石は魚類、最上層にいる化石は人間となる。つまり、この化石の分布は、進化の過程ではなく、洪水によって埋められた順番なのである。なんと合理的な説明ではないだろうか。
このような学びは、創造論と呼ばれている。是非興味を持った方は、創造論の学びを深めて頂きたい。そして、進化論は真理ではなく、穴だらけの仮説に過ぎないということをご理解頂きたい。科学が進めば進むほど、進化論の穴は見つかるが、創造論を否定する証拠は何ら発見されていない。この創造論の立場に立てば、この世界は創造主なる神によって無から有の創造として造られたのだ。そして、絶対的権威者である神が、被造物である人間に語られたことばが聖書なのである。よって、私たち人間は神のことばである聖書に耳を傾ける必然性がある。聖書を通して私たちは神がおられ、神がどのようなお方であるかを知ることができる。実はそれ以前に、神は自然を通し、歴史を通し、人間の内面(良心)を通して語っておられるのだ。そのことを教えているのがローマ人への手紙1章19〜20節である。
「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」(ローマ人への手紙1章19〜20節)
私たちは美しい景色、完全な生態系、四季の移り変わり、人体の不思議などを見たときに、それらは時間が経てば勝手に出来上がるものでなく、創造主である神によって造られたものであることは、はっきりと認められるので、そのことに関して弁解の余地はないのである。例えば、もし自動車の部品が全て揃っていたとして、それらをそのまま放置して100億年経ったら、自動車に組み上がるだろうか?
ましてや、それ以上に複雑な人間の体が、長い時間さえかければ偶然に生まれるはずがない。猿が適当にピアノの鍵盤を叩いたら、ベートーヴェンの曲が聴こえてくるだろうか?絶対にあり得ない。しかし、それをあるとしているのが進化論なのだ。これは神に敵対する存在が、人間を神から遠ざけるためのまやかしなのだ。そのことにどうか気付いて欲しい。
神は、私たち人間を愛しておられるので、無理やり信じさせようとはなさらない。なぜなら、愛には自由意志が必要だからである。YesともNoとも言える中で、自由意志によってYesを選び取るところに愛がある。そうでなければ、人間はただのロボットに過ぎない。神は人間と愛の関係を築くために、人間に自由意志を与えてくださった。その自由意志を、どのように用いるかで、私たちはその結果に責任を負っているのである。私たちは、被造世界を通して神がおられることを知っているにも関わらず、神を神として崇めず、感謝することもなく、自由意志を自らの欲望を満たすために濫用してきてしまった。その結果を刈り取ることは当然の帰結である。しかし、神は、そんな私たちを憐れみ、救いの道を用意してくださったのだ。それがイエス・キリストというお方である。
イエス・キリストは、神であるお方が人としてこの世界に来られた救い主である。イエス・キリストは、ご自身は全く罪を犯したことがないにも関わらず、私たちの罪を贖うために、全人類の罪の身代わりとして十字架で死んでくださった。そして、墓に葬られた。しかし、三日目によみがえり、500人以上の人たちの前にその姿を現された。その後、雲に包まれて天に昇っていかれたのである。イエス・キリストは今も生きておられ、私たちを救うために天で働いてくださっているのだ。このイエス・キリストを救い主として信頼するなら、私たちの過去・現在・未来のあらゆる罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのである。これが神のことばであり、神が私たちに示してくださっている愛である。自由意志によってこの愛を受け取るのか、拒絶するのか、どちらを選ぶかはあなた次第である。私はこの愛を受け取ることを選んだ。どうかあなたも神の愛をこの瞬間に受け取って欲しい。神は、あなたに送ったラブレターの返事を今か今かと待っておられる。