メッセージテーマ「携挙」



  • 2024/11/01
  • 携挙 / 再臨

クリスチャンの合言葉

聖書は、創世記からヨハネの黙示録まで全66巻から成っているが、そのうち創世記からマラキ書までを旧約聖書、マタイの福音書からヨハネの黙示録までを新約聖書と言う。両者をざっくり説明すると、旧約聖書には、人類の救い主が現れるという約束が書かれており、新約聖書には、その約束通りに現れた救い主とはイエス・キリストというお方であり、そのお方がどのようなことを行い、話されたかが書かれている。

特に聖書の最後の書であるヨハネの黙示録には、将来に起こることとしてイエス・キリストが語られたことがまとめて書き記されている。聖書の中で将来このようなことが起こると書かれた預言は、今まで100%文字通りに成就してきた。それゆえ、まだこれから成就すると約束されていることも100%文字通りに成就すると信じることができる。ここで、イエス・キリストが最後に語られた約束を見てみよう。

ヨハネの黙示録 22章20~21節
"これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」
アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。"

「これらのことを証しする方」とは、ヨハネの黙示録の啓示を与えられたイエス・キリストのことである。イエス・キリストが「しかり、わたしはすぐに来る」と約束された。この約束は、紀元96年頃になされたものであり、それから既に1928年ほど経った。どこが「すぐに」なのか、もっと早く来たらいいのに、とお思いになったかもしれない。これは「神の時が来たらすぐに」という意味である。

神は、ご自身の計画を持っておられ、それを寸分違わず実行されるお方である。神は今、私たち罪人が悔い改めて神に立ち返り、救いを受け取ることを待っておられる。この「すぐに」がまだ来ていないことは、私たちにとって「恵み」である。なぜなら、イエス・キリストが来られたら、この地上には神の裁きが下るからだ。

聖書預言によると、次に起こるのは「携挙」である。携挙とは、イエス・キリストが空中まで迎えに来られ、クリスチャンが皆、天に引き上げられることを言う。この携挙が起こった後、地上では7年間の大患難時代を迎え、罪に対する神の怒りが地上にぶちまけられる。この7年間で、世界戦争、天変地異などが起こり、世界人口の大半が死に絶える。もし、イエス・キリストがあと7年早く来られていたら、私はこの恐ろしい大患難時代を通過しなければならなかった。幸いイエス・キリストがまだ来られていなかったので、私は7年前にイエス・キリストを救い主として信じて救われ、この大患難時代の前に携挙に与ることができる者とされた。

この携挙は、「神の時が来たらすぐに」起こる。それは今日かもしれない、明日かもしれないのだ。その状態が約1928年続いて今に至っている。一刻も早く救われて、携挙に与ることができる者とならなければ、絶対に後悔することになる。読者の皆様に後で恨まれないためにも、ここで救われるために必要なことをお伝えしたい。それは「福音の3要素」を信じるだけである。

福音の3要素とは、
①創造主なる神が人となられたイエス・キリストが私たちの罪を   贖うために身代わりとなって十字架で死なれたこと、
②イエス・キリストは死んで墓に葬られたこと、
③イエス・キリストは死んで三日目に蘇られたこと、
である。

そのようなお方としてイエス・キリストを信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことができるお方であると信頼した者は、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられる。そして、携挙の時に、決して朽ちることのない栄光のからだに変えられて、天に引き上げられるので、大患難時代を免れることができる。

イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンたちにとって、携挙こそ最大の希望である。よって、クリスチャンはイエス・キリストが迎えに来てくださるのを待ち侘びているのだ。それゆえ、「主イエスよ、来てください」という言葉のアラム語「マラナ・タ」が、クリスチャンの合言葉になっているのだ。「マラン」が「主よ」、「アタ」が「来てください」という意味であり、それらを繋げて「マラナ・タ」となる。クリスチャン同士が「マラナ・タ」と言葉を交わす時、こうした希望を分かち合っているのだ。主イエスの恵みは、すべての人に等しく注がれている。まだ主イエスから救いを受け取っていない方は、今、ここで救いを受け取り、共に携挙に与る者となられることを心からお勧めする。
マラナ・タ

  • 2024/10/01
  • 携挙

聖書が語る「奥義」を伝授致す。

「奥義」と聞くと、何やら「北斗百裂拳」のような必殺技をイメージするかもしれない。しかし、聖書が語る奥義とは、そのような類のものではない。聖書で言う「奥義」とは、旧約聖書では啓示されていなかった真理のことである。新約聖書になって、使徒たちを通して初めて明らかになった真理を奥義という。では、奥義にはどのようなものがあるか。例えば、奥義としての王国、イスラエル人の一部が頑なになった理由、教会とキリストの関係などがあるが、今回、皆様に伝授したい奥義は「携挙」である。

携挙とは、教会が天に上げられることを言う。これを聞いて、教会堂の建物が空に浮かんでいる映像を思い浮かべた方がおられるかもしれない。そうではない。ここで言う「教会」とは、「普遍的教会」、つまり、紀元30年のペンテコステの祭りの日に聖霊が降臨して以降、携挙が起こる日までの間にイエス・キリストを信じて救われた信者の集合体のことである。この時、既に死んでいた信者は、栄光のからだに蘇り、生きている信者は、生きたまま栄光のからだに変えられる。そして、空中で主イエス・キリストに会い、そのまま神がおられる第三の天に連れて行って頂ける。

今私たちが持っている肉体は、地上で生活するのに適した体であるのに対し、「栄光のからだ」は、天で生活するのに適した体である。地上の体は死ぬと朽ちるが、栄光のからだは死ぬことがなく朽ちることはない。イエス・キリストを救い主として信じた者は、永遠のいのちが与えられているので、永遠に生きられる体が与えられるのだ。その体が与えられるのが、携挙の時である。携挙こそ、私たちクリスチャンが抱いている復活の希望が成就する瞬間なのである。

携挙がいつ起こるか、誰も知らない。主イエス・キリストでさえ知らない。父なる神だけがご存じである。今日かもしれない、明日かもしれない、1000年後かもしれない、しかし、神の時が来たら直ちに起こるのが携挙である。ただ、この携挙は、7年間の大患難時代が始まる前に起こることだけは、聖書から明確に教えられている。そして、今の世界情勢を見た時に、その大患難時代がもう目の前まで迫っていることが、肌感覚として感じられる。ということは、大患難時代の前に起こる携挙の時まで、あとわずかだということになる。

携挙は、異邦人(非ユダヤ人)の救われる数が満ちた時に起こる。つまり、携挙に与ることができる最後の一人が救われた時、携挙が起こるのだ。これは、ノアの箱舟の戸が閉じられた時、地球全体を覆う大洪水から守られる者と、そうではない者が分けられたのと同様である。今、イエス・キリストという箱舟の扉は開いている。そして、まだイエス・キリストを信じて救われていない人が箱舟に入るのを神が忍耐を持って待ってくださっているのだ。この箱舟に乗り損なった者は、前代未聞の天変地異、世界戦争、大飢饉、疫病などで人類の大半が死に絶える大患難時代を通過しなければならない。そんな目に遭う前に、救いを受け取って、共に携挙に与ろうではないか。救われるために必要なことは、以下の福音の3要素を信じるだけである。

福音の3要素
①創造主なる神が人となられたイエス・キリストが、あなたの罪を贖うために身代わりとなって十字架で死んでくださったこと。
②また、墓に葬られたこと。
③また、三日目に蘇られたこと。
そして、復活されたイエス・キリストは、今も生きてあなたを救うことができる救い主であると信頼した時、あなたの罪は全て赦され、永遠のいのちが与えられ、携挙の時に栄光のからだを頂き、天に上げられるのだ。

永遠の滅びである地獄に行くのか、それとも、永遠の祝福である天国に行くのか。その分かれ目は、福音の3要素を信じて、神に信頼するかどうかである。是非、このグッドニュースを信じ、携挙という最大の奥義を受け取って頂きたい。

  • 2024/06/01
  • 教会 / 携挙

史上最大の建築プロジェクト

最も有名な建築物の一つに、サグラダ・ファミリアというスペインにある世界遺産がある。サグラダ・ファミリアは、1882年に着工されたがいまだ完成しておらず、かつては完成までに300年かかると見込まれていたそうだ。しかし、昨今のIT技術の進展などのために、大幅に工期が短縮されて約144年の工期となり、2026年の完成が見込まれている。このサグラダ・ファミリアは、地上に存在する目に見える教会堂である。それに対し、この世界には、目に見えない教会が存在する。それを普遍的教会という。普遍的教会とは、紀元30年のペンテコステの日以来、今に至るまでに、イエス・キリストを信じて救われた全ての信者で構成されている信者の群れのことである。この普遍的教会は、信者の群れであるので建物ではないが、聖書では建物にたとえられている。普遍的教会というのは、紀元30年から現在まで、約2000年間も建設中である史上最大の建築プロジェクトなのだ。

"使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。"(エペソ人への手紙 2章20~21節)

普遍的教会には、他の建築物と同様に、土台が据えられている。その土台とは、使徒たちと預言者たちであり、その要の石がイエス・キリストである。つまり、創造主なる神が人となられたイエス・キリストが、全人類の救い主として、私たちの罪を贖うために身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、また墓に葬られたこと、そして三日目に蘇られたことを信じる信仰、このようなお方としての救い主イエス・キリストが、普遍的教会の要の石なのだ。

"あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。"(エペソ人への手紙 2章22節)

この普遍的教会は、主にある聖なる宮、つまり、神が臨在してくださる神殿となっている。それと同時に、普遍的教会の構成員である一人ひとりの信者もまた、神の臨在の場とされている。私たち信者は、創造主なる神がその住まいとしてくださっている神殿であると思う時、身が引き締まる思いがする。聖霊なる神の働きによって、私たちを神殿として相応しい存在にしてくださるので、感謝に堪えない。

既に建設が始まって2000年が経とうとしている普遍的教会であるが、間も無く完成の時を迎えようとしている。なぜそう言えるかというと、神のご計画を鑑みた時、普遍的教会が完成した後に訪れる世界が、目の前まで迫っているからである。その世界とは、大患難時代である。大患難時代とは、7年間続く、全世界を襲う患難の時代である。この時、世界戦争、天変地異、大飢饉などが起こり、世界人口の大半が滅んでしまう。このような恐ろしい世界が訪れる前に、普遍的教会は完成し、天に引き上げられる。これを携挙という。

携挙は、イエス・キリストを信じて救われる異邦人(ユダヤ人以外の全ての人)の数が満ちた時に起こる。つまり、普遍的教会を建て上げる建材の最後の1ピースが埋まった時、普遍的教会が完成し、普遍的教会に属する全ての信者が、その時死んでいた者は栄光のからだに復活し、その時生きている者は生きたまま栄光のからだに変えられて、神がおられる天に上げられる。その時は、今日かもしれない、明日かもしれない。そのような時代に今私たちは生きている。私たちはその日がいつ来ても良いように、霊の目を覚まして、備えようではないか。その備えとは、イエス・キリストを救い主として信じることである。一人でも多くの方が、イエス・キリストを信じて、普遍的教会の一員となり、共に天に上げられますように。

  • 2024/02/01
  • 霊的備え / 携挙

霊的備えのすすめ

2024年は、元旦から能登半島における大地震からスタートした。筆者は、遅ればせながら、防災意識が高まり、家具の固定や備蓄品の確保など、危機的状況に対する備えをし始めた。その備えをしながら、もっと大切な備えについて思いを馳せている。それは、「霊的備え」である。私たちにとって、最大の悲劇は死である。その死を避けるために防災をするのであるが、さらに、死んだ後の備えこそが、「霊的備え」なのだ。私たち人間は、神の前に一人残らず罪人であり、死後の裁きにおいて有罪を免れ得ない存在である。死後の裁きで有罪となった者には、火と硫黄の燃える池(地獄)での永遠の滅びが待っている。神は、私たち人間を愛しておられ、一人として地獄に行って欲しくないと願っておられる。それゆえ、神ご自身がイエスという人となられ、私たち全ての人間の罪を贖うために、十字架で死んでくださった。そして、イエスは墓に葬られ、三日目に蘇られた。このイエス・キリストは今も生きて私たちを罪と死から救ってくださるお方であると信頼した者は、全ての罪が赦され、永遠の命が与えられる。そして、死後の裁きで無罪とされ、御国で永遠に安らぐことができる。このグッドニュースを信じ、イエス・キリストにある救いを受け取ることこそ、霊的備え、究極の防災である。

イエス・キリストを救い主として信じた者、すなわち、クリスチャンは、霊的備えができているのだが、霊的備えにも段階がある。それは、義認、聖化、栄化という段階である。私たちはクリスチャンになった瞬間に、義認された。つまり、神に義と認められたのだ。これは一度限り起こることであり、一度義認された者は、その状態を失うことは決してない。その後、聖化という段階に入る。これは、霊的状態が徐々に清められ、キリストに似た人格へと変えられていくプロセスである。私たちは義認されても、直ちに「聖人君子」になるわけではない。依然として、生まれながらに持っている罪の性質のため、日々罪と格闘しながら生きている。

しかし、聖霊の力によって、徐々に罪から解放されていき、罪を犯す頻度が減ってくる。そして、聖化が完成する日が来る。それが、「キリストの日」、つまり、キリストが再臨する時である。より詳細に言うと、キリストが空中までクリスチャンを迎えに来られた時、クリスチャンは栄光の体に変えられて(栄化され)、天に引き上げられるのだ。これを「携挙」と言う。

クリスチャンは、キリストの日に、キリストの前に立つのだ。そのために、今から備える必要がある。その備えとは、日々キリストの教えに従って生きることである。そのためには、キリストが私たちに何を教え、どのように生きるべきであるかを聖書から学ばなければならない。そして、学んだことを生活の中で実践して、自分のものとしていかなければならない。この営みは、自分の頑張りによって成し遂げられるものではない。聖霊の助けが必要である。私たちの助け主である聖霊に心を明け渡すことによって、聖霊が私たちの心を支配してくださり、キリストの教えを守ることができるように、私たちを造り変えてくださるのだ。こうして、私たちは、知識と識別力を身につけ、大切なことを見分けることができるようになる。そして、キリストの日が来るまでに、純真で非難されるところがない者となり、豊かな義の実をつけるようになる。これは全て神の力によることである。それゆえ、その時、神の栄光と誉れが現されるのである。これが私たちの上に成就するように、パウロは次のように祈っている。

ピリピ人への手紙 1章9~11節
"私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。"

このパウロの祈りが私たちの上になりますようにと祈りつつ、日々、霊的備えをしていこうではないか。キリストの日は、もうそこまで来ている。

  • 2024/01/01
  • 神に喜ばれる生き方 / 携挙

終わりの時代の中の、終わりの時代

ハレルヤ!新年明けましておめでとうございます。
2024年も、神の誤りなきことばである聖書を正しく学び、神の御心に沿った日々を送って参りましょう。年の始めに、私たちが守るべき大切な教えを確認したい。

ローマ人への手紙 12章1~2節
"ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。"

私たちは、生まれながらに御怒りを受けるべき器であるにも関わらず、神の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によって、罪赦され、永遠のいのちが与えられた。この恵みを受け取った者として出すべき合理的結論は、全的献身である。全的献身とは、自発的に、喜んで、自分の全存在をかけて、神の御心を行う器として生きることである。その生き方をするにあたって、悪魔が支配するこの世の価値観に染まってはいけない。ポストモダンの時代である現代は、自分が真理だと思うものが真理とされてしまう。多様性という名のもとに、何でもありの時代に私たちは生きている。その中にあって、私たちは、神の国の市民として、神の価値観に堅く立って生きていかなければならない。そのために必要なことは、神の御言葉である聖書を正しく学び、神に関する知識を更新していくことである。そして、学んだことを自分の生活に適用することである。そうすることで、津波のように襲ってくるこの世の価値観から身を守り、神に喜ばれる生き方を送ることができるようになる。

2024年は、終わりの時代の中の終わりの時代である。永遠に続くかのように思われている日常が間も無く終わろうとしている。コロナ禍に入ってから、世界が一気に同じ方向に舵を切った。緊急事態という名目のもと、強力なリーダーシップ、全体主義の世の中になり、国民は自由を制限されるようになった。このままこの世は、世界統一政府に向けて突き進むだろう。また、デジタル通貨、タトゥー型ワクチン、ワクチンパスポート、AI技術による顔認識システム、 第三神殿建設計画などなど、技術的に、状況的に、大患難時代にいつ突入してもおかしくない時代になっている。ということは、大患難時代の前に起こると約束されている携挙が、より目の前に迫っていることを意識せざるを得ない。

携挙は、紀元70年以降、いつ起こってもおかしくないものである。今日かもしれない、明日かもしれないという状態が約2000年続いたわけだが、上記の通り、大患難時代が待ったなしの状態になった今、ますますその切迫度が高まっている。そのような時代に私たちはいかに生きるべきか。私たちは、緊急性と平常心を保ちながら、日々、キリストの福音を宣べ伝えることを最優先にするべきである。最近特に、こちらが予想していないタイミングで伝道の機会が与えられたり、人が救われたりすることが格段に増えてきたように思う。携挙は、異邦人の救われる数が満ちた時に起こるが、まさに神がそのラストスパートをされているように感じている。 2024年は、今まで以上に伝道に力を入れて行きたい。そのために、いつその機会が訪れても良いように、日々御言葉を学び、霊的準備を万全にしようではないか。

  • 2023/09/01
  • 携挙

携挙は、大患難時代の「前」に起こる

「携挙」は、私たちクリスチャンの最大の希望である。なぜなら、この携挙の時に、私たちの救いが完成するからである。聖書が教える救いとは、義認・聖化・栄化から成っている。義認とは、過去形の救いであり、福音を信じた瞬間に起こる一度限りのことである。この義認を受けることで、終末的な裁き、つまり、将来神の前に立たされた時に、無罪宣言を受けることができる。次に、聖化とは、現在進行形の救いであり、地上生涯において、徐々に罪の生活から解放されていくことである。そして、栄化とは、聖化の完成であり、完全に罪から解放されることである。携挙が起きた時に、私たちは決して朽ちることのない栄光のからだが与えられ、罪とは無縁の存在に変えて頂けるのだ。

携挙が起きた時、教会(全てのクリスチャン)が天に引き上げられる。そして、地上にはクリスチャンが一人もいなくなる。この携挙がいつ起こるのか、それは誰も知らない。イエス・キリストですらその時は知らず、父なる神だけがご存じなのだ。私たちが聖書を通して知りうることは、携挙はいつでも起こり得ること、つまり、携挙の前に起こらなければならない前提条件はないということだ。そして、携挙は、全世界を襲う7年間続く大患難時代の「前」に起こるということだ。しかし、人によっては、携挙は大患難時代の中間に起こるとか、大患難時代の最後に起こると考えている人もいる。これから、携挙は大患難時代の前に起こると考える根拠となる聖書箇所をいくつかご紹介したい。

ヨハネの黙示録の構造
黙示録1〜3章は、大患難時代の前の出来事について書かれているが、教会が存在している。
4〜5章は、大患難時代直前の天の様子について書かれているが、教会が存在している。
6〜18章は、大患難時代の描写について書かれているが、教会への言及はない。
19〜22章は、大患難時代の後の出来事について書かれているが、教会が存在している。

以上から、教会は、大患難時代を通過しない、つまり、大患難時代の前に携挙されるといえる。なお、黙示録以外でも、大患難時代について書かれている箇所で教会は登場していない。

ルカの福音書 21章34~36節
"あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」"

「その日」とは、携挙の日及びそれに続く神の裁きの日を指す。この神の裁きは、全地の表に住むすべての人に臨むが、逃れる方法がある。それが、信者として「人の子の前に立つ」ことである。つまり、携挙に与って、人の子(キリスト)の前に立つ者は、大患難時代に起こる神の裁きから免れることができるのである。よって、携挙は大患難時代の前に起こるということである。

テサロニケ人への手紙 第一 1章10節
"この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。"

ヨハネの黙示録 3章10節
"あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。"

「御怒り」とは、大患難時代に注がれる神の怒りの裁きのことである。これらの聖句は、大患難時代の中での守りではなく、大患難時代そのものから取り去られて守られると言う意味である。黙示録3章10節の「試練の時には」で使われている前置詞「エク」は、「from, out of」(〜から出て)と言う意味である。これが、もし大患難時代に地上にあって守られるという意味ならば、大患難時代に多くの聖徒が死ぬことの説明ができない。この約束のことばは、教会時代の聖徒に与えられているのであって、大患難時代の聖徒ではない。大患難時代の聖徒たちにはこの約束は与えられていないので、大勢死ぬことになる。両者を区別して理解する必要がある。

ここで、携挙は大患難時代の中間であると考える人は、「御怒り」という言葉を、大患難時代の後半だけを指すと考えている。だから、御怒りが下る後半の前、つまり、中間に携挙が起こると考える。しかし、大患難時代はその全体が神の御怒りであると解釈すべきである。つまり、神の御怒りである大患難時代が始まる前に、教会は携挙されるということである。

携挙はすぐにでも起こり得る。
携挙は、いつでも起こる可能性がある。英語では「Imminent」と言う。これは、その前に起こらなければならない前提となる出来事がないという意味である。

ヨハネの黙示録 22章20節
"これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。"

黙示録の最後に、キリストが「わたしはすぐに来る」と語られている。つまり、携挙はすぐにでも起こり得るということである。

以上、携挙は、大患難時代の前に、いつでも起こり得るのだ。その日は今日かもしれない、明日かもしれないのである。この携挙の日は、クリスチャンにとっては最大の希望であると同時に、そうでない方にとっては恐ろしい日となる。
是非、イエス・キリストを信じて携挙に与り、恐ろしい神の御怒りから救われることを心からお勧めする。

  • 2022/09/01
  • 携挙

携挙を待ち望む信仰

私たちクリスチャンにとって最大の希望は、復活です。イエス・キリストが紀元30年に私たちの罪のために十字架で死なれ、墓に葬られた後、三日目に栄光のからだに蘇えられました。このイエス・キリストの復活は「初穂」としての復活であり、イエス・キリストを救い主として信じる信仰により、神の恵みによって救われたクリスチャンは、イエス・キリストに続いて復活に与ることができます。では、私たちはいつ復活するのでしょうか?それは、イエス・キリストが私たちを空中まで迎えに来られた時です。その時、イエス・キリストを信じてから死んだ人は、栄光のからだに蘇って天に上げられ、生きている人は生きたまま栄光のからだに変えられて天に上げられます。これを携挙と言います。私たちクリスチャンは、この携挙を待ち望んでいるのです。

携挙の代表的な根拠聖句

使徒パウロが、携挙に関連した7つのステップについて教えています。

テサロニケ人への手紙 第一 4章16~17節
"すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。"

①「主ご自身が天から下って来られます。」

②「号令」。これは、軍の総司令官が発する命令の声です。その  命令で、死者の復活と生者の天への引き上げが起こります。

③「御使いのかしらの声」。この声の主は、天使長ミカエルです。  総司令官であるイエスが命令を出し、副官であるミカエルの復  唱によって計画が動き始めるのです。

④「神のラッパの響きとともに」。ラッパの音は、戦争や聖会に  民を招集するためのものです。ラッパの響きが、携挙が起こる  ための引き金になります。

⑤「そしてまず、キリストにある死者がよみがえり」。死んだ聖  徒が携挙から漏れることはありません。「キリストにある」と  は、聖霊のバプテスマによって普遍的教会の一員となった新約  時代の聖徒のみを指す言葉です。

⑥「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包ま  れて引き上げられ」。携挙の時に生きている聖徒たちは、例外  なしに天に引き上げられます。

⑦「空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主と  ともにいることになります」。復活した聖徒たちと生きている  聖徒たちが、一緒に空中で主イエスに会うのです。

携挙のタイミング

携挙がいつ起こるのか、聖書はそのタイミングを明確には啓示していません。今日かも知れない、明日かも知れない、というのが携挙です。

ヨハネの黙示録 22章20節
"これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。"

この聖句にある「すぐに来る」というのは、その前に起こらなければならない出来事がないということです。つまり、携挙は「神の時が来たら」直ちに起こるのです。

ただし、一つだけ言えるのが、7年間の大患難時代が始まる前までに起こるということです。この立場を、患難期前携挙説と言います。患難期前携挙説の根拠は沢山ありますが、その代表的なものをご紹介します。

ヨハネの黙示録の概観

黙示録の中で、患難期に言及した箇所には、教会という言葉が出て来ません。黙示録1〜3章は患難期前の出来事を扱っていますが、そこには教会は存在しています。黙示録19〜22章は患難期後の出来事を扱っていますが、そこにも教会が存在しています。しかし、その間の患難期そのものを扱っている箇所では、教会への言及がありません。これは、患難期には地上に教会が存在していないことを示唆しています。

ルカの福音書 21章35~36節
"その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」"

「その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨む」とある通り、神の裁きを免れる人は一人もいません。しかし、神の裁きから逃れる方法があると教えられています。それは、信者として「人の子の前に立つ」ことです。携挙に与って、「人の子」であるイエス・キリストの前に立つ者は、神の裁きである大患難時代から逃れることができるのです。つまり、携挙は大患難時代の前に起こるということです。

ヨハネの黙示録3章10節
"あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。"

「試練の時」とは、大患難時代のことです。「試練の時には、わたしもあなたを守る」と訳すと、試練の中での守りであるように読めます。しかし、ここで使われている前置詞「エク」は、分離を意味する前置詞です。よって、この箇所は、大患難時代の中での守りではなく、そこから取り出されるので守られるという意味です。従って、「試練の時から、わたしもあなたを守る」と訳すべきなのです。つまり、教会(信者)は、大患難時代の前に携挙されるということです。

携挙は間近に迫っている

携挙は今日かも知れない、明日かも知れない、という状態が1900年以上続いて来ました。ですので、どうせ携挙はまだ当分来ないだろうと思われるかもしれません。しかし、今、携挙の後に訪れる大患難時代に突入しようとしています。世界統一政府、世界統一宗教、第3神殿、獣の刻印など、大患難時代で現実となるこれらが現実味を帯びて来ました。大患難時代が近いのだとしたら、その前に起こる携挙はもっと近いということです。大患難時代に入ると、世界人口の大半が死滅し、また真の信仰を持つことは文字通り命懸けになります。大患難時代に入っても大勢の人がイエス・キリストを救い主であると信じて救われますが、殉教の死を覚悟しなければなりません。そのようなことになる前に、今、この瞬間にイエス・キリストを信じて救われ、携挙に与ることが最も重要なことです。

イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目に蘇られたことを信じ、イエス・ キリストは今も生きて私たちを救うことのできる救い主であると信頼しましょう。そして、共に携挙を待ち望む信仰を持ち、 今を生きる力を頂きましょう。

マラナタ!(主よ、来てください)

単 立 広 島 平 和 教 会

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