- 2024/11/01
- 携挙 / 再臨
クリスチャンの合言葉
聖書は、創世記からヨハネの黙示録まで全66巻から成っているが、そのうち創世記からマラキ書までを旧約聖書、マタイの福音書からヨハネの黙示録までを新約聖書と言う。両者をざっくり説明すると、旧約聖書には、人類の救い主が現れるという約束が書かれており、新約聖書には、その約束通りに現れた救い主とはイエス・キリストというお方であり、そのお方がどのようなことを行い、話されたかが書かれている。
特に聖書の最後の書であるヨハネの黙示録には、将来に起こることとしてイエス・キリストが語られたことがまとめて書き記されている。聖書の中で将来このようなことが起こると書かれた預言は、今まで100%文字通りに成就してきた。それゆえ、まだこれから成就すると約束されていることも100%文字通りに成就すると信じることができる。ここで、イエス・キリストが最後に語られた約束を見てみよう。
ヨハネの黙示録 22章20~21節
"これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」
アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。"
「これらのことを証しする方」とは、ヨハネの黙示録の啓示を与えられたイエス・キリストのことである。イエス・キリストが「しかり、わたしはすぐに来る」と約束された。この約束は、紀元96年頃になされたものであり、それから既に1928年ほど経った。どこが「すぐに」なのか、もっと早く来たらいいのに、とお思いになったかもしれない。これは「神の時が来たらすぐに」という意味である。
神は、ご自身の計画を持っておられ、それを寸分違わず実行されるお方である。神は今、私たち罪人が悔い改めて神に立ち返り、救いを受け取ることを待っておられる。この「すぐに」がまだ来ていないことは、私たちにとって「恵み」である。なぜなら、イエス・キリストが来られたら、この地上には神の裁きが下るからだ。
聖書預言によると、次に起こるのは「携挙」である。携挙とは、イエス・キリストが空中まで迎えに来られ、クリスチャンが皆、天に引き上げられることを言う。この携挙が起こった後、地上では7年間の大患難時代を迎え、罪に対する神の怒りが地上にぶちまけられる。この7年間で、世界戦争、天変地異などが起こり、世界人口の大半が死に絶える。もし、イエス・キリストがあと7年早く来られていたら、私はこの恐ろしい大患難時代を通過しなければならなかった。幸いイエス・キリストがまだ来られていなかったので、私は7年前にイエス・キリストを救い主として信じて救われ、この大患難時代の前に携挙に与ることができる者とされた。
この携挙は、「神の時が来たらすぐに」起こる。それは今日かもしれない、明日かもしれないのだ。その状態が約1928年続いて今に至っている。一刻も早く救われて、携挙に与ることができる者とならなければ、絶対に後悔することになる。読者の皆様に後で恨まれないためにも、ここで救われるために必要なことをお伝えしたい。それは「福音の3要素」を信じるだけである。
福音の3要素とは、
①創造主なる神が人となられたイエス・キリストが私たちの罪を
贖うために身代わりとなって十字架で死なれたこと、
②イエス・キリストは死んで墓に葬られたこと、
③イエス・キリストは死んで三日目に蘇られたこと、
である。
そのようなお方としてイエス・キリストを信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことができるお方であると信頼した者は、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられる。そして、携挙の時に、決して朽ちることのない栄光のからだに変えられて、天に引き上げられるので、大患難時代を免れることができる。
イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンたちにとって、携挙こそ最大の希望である。よって、クリスチャンはイエス・キリストが迎えに来てくださるのを待ち侘びているのだ。それゆえ、「主イエスよ、来てください」という言葉のアラム語「マラナ・タ」が、クリスチャンの合言葉になっているのだ。「マラン」が「主よ」、「アタ」が「来てください」という意味であり、それらを繋げて「マラナ・タ」となる。クリスチャン同士が「マラナ・タ」と言葉を交わす時、こうした希望を分かち合っているのだ。主イエスの恵みは、すべての人に等しく注がれている。まだ主イエスから救いを受け取っていない方は、今、ここで救いを受け取り、共に携挙に与る者となられることを心からお勧めする。
マラナ・タ