メッセージテーマ「信仰」



  • 2024/08/01
  • 信仰 

神が行くってゆうたら、絶対行くねん!

日本人の神概念とはどのようなものだろうか?かつての私にとって、神とは分業の神である。学問の神様はここ、恋愛の神様はここ、交通安全の神様はここ、というように、全国各地の神社や仏閣に行って、お札を買ったり、お賽銭をしたりすることで、ご利益にあやかろうとしていた。それで願いが叶えられたような気がしたり、しなかったり。なんと曖昧で、いい加減なことか。しかし、そのようなものだと思って、あまり気にもしなかった。周りの人たちが有り難がっているから、自分も何となく有り難がっていた。それが、かつての私の神概念だった。

しかし、聖書に出会い、その考え方が180度変わった。私がかつて神だと思っていたものは、何の力もない、ただの偶像でしかなかったのだ。石や木の像が私を助けてくれるはずがない。そんなこと分かっていたはずなのに、改めてその事実を突きつけられた時、衝撃を感じた。そして、真の神は、天地万物を造られた創造主であることを知った。創造主であるが故に、神は唯一無二のお方である。このお方は、ご自身のかたち(神に似た存在)として人間を造り、人間を愛された。どれほど愛されたかというと、神ご自身がイエスという人間となられ、罪のために滅びるしかない人間の身代わりとなって、十字架の上で罪の刑罰を一身に受け、死んでくださるほどに、私たちを愛してくださっているのだ。

この神は、ご自身の計画を持っておられ、その計画を寸分違わず全て成就される。それゆえ、神がこうなると仰れば、必ずその通りになる。そのことを教えている聖書箇所の一つをご紹介しよう。それは、マルコの福音書の4章35節から41節である。ある日、イエス・キリストは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。そして舟に乗ってガリラヤ湖を航行していたが、激しい突風が起こった。波が舟の中に入って、舟が水でいっぱいになった。

弟子たちは舟が沈むことを恐れていたが、イエスは船尾で寝ていた。弟子たちはイエスを起こして、助けを求めた。するとイエスは起き上がって、風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言うと、風がやみ、すっかり凪になった。

この出来事を通して、弟子たちは、イエスというお方は風や湖という自然界を支配しておられるお方であることを知った。と同時に、イエスが向こう岸へ渡ろうと言えば、たとえ道中が大嵐になろうとも、必ず向こう岸に渡ることができるのだということを知った。神であるイエスが約束されたことは、必ず成就する。これは、将来についても同じである。イエス・キリストは、ご自身を信じる者を死と罪の束縛から解放し、永遠の命を与えると約束してくださっている。そして、その者を神の国に連れて行って下さると約束してくださっている。この言葉は真実であり、私たちはそのまま信じることができる。

この神の国とは、イエス・キリストが王として全世界を統治する理想的な世界である。そして、それが1000年間続いた後、今の天と地は過ぎ去り、新しい天と新しい地がやってくる。そこで、神やイエス・キリストを信じる全ての人たちと共に永遠に生きるのである。その世界は、死も病も苦しみも悲しみもない、完璧な理想郷である。私たちはそこに必ず行くことができる。なぜなら、神がそう約束してくださったからである。神が行くってゆうたら、絶対行くねん!

  • 2021/07/01
  • 信仰

God In, God Out



如何に生きるべきか

聖書と出会い、イエス・キリストの福音を信じることによって、死という最大の問題が解決された人にとって、次の関心事は「如何に生きるべきか」という問題だと思います。神から義と認められたことによって、過去に犯した罪、現在犯している罪、そして、これから犯すであろう将来の罪も赦されている、と知った時、人間の心には2つの相反する思いが生じます。

一つは、これだけの罪が赦されているのだから、神に喜ばれる清い生き方をしよう、という思い。もう一つは、すべての罪が赦されているのだから、何をしても良いのだ、これからも好き放題に罪を犯しながら生きよう、という思い。前者を新しい性質、後者を古い性質と言います。新しい性質とは、霊的に新しく生まれた時に聖霊から与えられた性質であり、古い性質とは、救われる前から持っている罪人の性質です。

神の恵みにより、信仰によって救われた人間の心のうちには、このように新しい性質と古い性質が共存し、両者がせめぎ合っているのです。よって、新しい性質に従って生きたいのに、古い性質が現れて邪魔をする、という葛藤に直面することになります。では、どうすれば古い性質を抑え込み、新しい性質を活発に働かせることができるようになるのでしょうか。

人間の性(サガ)

ここで、気合いや修行によって古い性質を抑え込もうと頑張ってしまうのが、我々人間の性(サガ)ではないでしょうか。 しかし、この方法を採用した場合、例外なく失敗します。罪を犯さないでおこう、と意識すればするほど、罪を犯したくなるのです。  使徒パウロがローマ人への手紙7章15節でこのように言っています。

「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。」(ロマ7:15) つまり、人間の努力のみによって善を行うことはできないということです。

肉に従うか、御霊に従うか

では、どうすれば良いのでしょうか。その答えは、「肉に従わず御霊に従って歩む」(ロマ8:4)ことです。また、「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます」(ロマ8:5)とパウロは教えています。つまり、御霊に従って、御霊に属することを考えることで、新しい性質を活発に働かせ、神に喜ばれる清い生き方をすることができるのです。ここで、肉に属することと、御霊に属することを比較してみましょう。

肉に属することとは、以下のようなものです。
「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」(ガラ5:19~21)

他方、御霊に属することとは、以下のようなものです。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラ5 :22~23)

以上のように、肉に属することと、御霊に属することとは対照的なものです。これらの聖句をもとに、自分が肉に属しているか、御霊に属しているかを自己吟味することができます。

御霊に従って生きるためには

日頃、自分が目で見ているもの、耳で聞いているものは、肉に属するものでしょうか、それとも御霊に属しているものでしょうか。 英語で、「Garbage In, Garbage Out」という言葉があります。これは、ゴミのようなものを入れたら、ゴミのようなものしか出てこない、という意味です。 これを霊的生活に適用すると、肉に属するものに接して生きれば、肉的な生き方しか出来ない、ということになります。逆に言うと、御霊に属するものに接して生きれば、霊的な生き方をすることができる、いうことが出来ます。つまり、「God In, God Out」ということです。

このように、神に喜ばれる清い生き方をするためには、自らを肉に属することから分離し、御霊に属することの中に身を置くことが大切です。例えば、聖書を開いて静まってデボーションをする、主にある兄弟姉妹と交わりをする、聖書研究をする。などなど、肉に属するものから距離を取り、神との親しい交わりを持つことを生活の中心に置くことで、古い性質を抑え込み、新しい性質を活発に働かせることができます。その結果、神に喜ばれる清い生き方をすることが出来るようになります。

神を信じる私たちには自由があります。その自由を、放縦な生活のために用いるのではなく、神から受けた愛に応答するために用いたいですね。そうした選びをすることで、人間にとって本来の最も幸せな生き方をすることができるのです。God In, God Outを心がけて生きようではありませんか。

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