メッセージテーマ「信仰」



  • 2025/01/01
  • 救い / 信仰

よく知らずに「間に合ってます」って言ってませんか?

「あの〜、イエス・キリストを信じればあなたも救われるのですが、お話聞いてくださいませんか?」
「あ、いや、間に合ってますんで、すいません。」

クリスチャンからイエス・キリストについて話しかけられた時に、「間に合ってます」と言って断る方が少なくないだろう。しかし、本当に「間に合っている」と自信を持って言えるか?と聞かれたら、なんとなく、という人が大半ではないだろうか。実は、全然「間に合っていない」というのが現実である。その理由をこれから解説したい。

私たちは皆、いつか必ず死ぬ。これは紛れも無い真理であり、誰も疑う人はいないだろう。では、死んだらどうなるのかについて明確な答えを持っているだろうか?もし明確な答えがないのだとしたら、あなたは「間に合っていない」と言わざるを得ないだろう。死んだらどうなるのか、私たちは誰一人として実際に見たことがないので、世の中には様々な考え方がある。しかし、「真実はいつも一つ」なのだ。では、どうやってその一つの真実を見分けたら良いのだろうか。それは、命と死についての真実を知っており、絶対に真実しか口にしない人の話を聞くしかない。しかし、そんな人は存在するだろうか?私たち人間の知識は有限であり、また、間違い得る存在である。自分は絶対に真実であると言う人がいたら、むしろ疑った方が良いだろう。ところが、全知全能であり、絶対的に真実なお方が存在するのだ。それが、【神】である。

神と言うキーワードが出てきただけで拒絶反応を示す人もいるだろうが、あなたが知っている神と、私がここで言っている【神】は全く別の存在である。私が言っている【神】とは、この世界の第一原因者であるお方であり、創造主であるお方のことである。先ほど「真実はいつも一つ」と言ったように、この世界が存在している原因は一つしかない。巷では進化論があたかも真実であるかのように語られているが、ビッグバンが起こる前は何があったのか、どうやって無から有を生じさせたか、納得のいく説明はなされていない。因果関係で考えた時に、たとえ私たちの常識に反しようが、この世界は目に見えないものによって造られた、と考える以外に合理的な説明は不可能である。つまり、私たち人間より高次元の存在によって私たちは造られたが故に、その存在を私たちは認識することができないだけであり、事実、その存在はこの世界が存在していることによって証明されているのだ。

ここで野球盤を思い出して欲しい。野球盤とは、平面で行う野球だ。ボールは常に平面の上を動いている。しかし、消える魔球というのがある。それは、ホームベースの直前に穴が空いて、そこにボールが落ちることを言う。つまり、2次元の世界から3次元の世界に移動したことによって、2次元の世界からは消えたように見えるのだ。2次元の世界からは消えたように見えても、ボールは存在しなくなったわけではない。これと同じように、私たちが生きている世界よりも高次元の存在は、私たちには認識することができないが、だからと言って存在していないとは言えない。聖書は、創造主である【神】は霊的な存在であると教えている。その【神】が、ことばによって、無から有を生じさせてこの世界をお造りになったと教えている。これは私たちにとって超自然的に感じられるが、しかし、事実、私たちに見える世界が存在していることが、そのことが真実であることを雄弁に物語っている。

聖書は、【神】がこの世界を造り、私たち人間を造り、私たちに命を与えたと教えている。この【神】は全知全能であり、このお方に不可能なものは何もない。また、このお方は絶対的に義であり、聖(罪や悪と無縁)であり、真実なお方である。

【神】はそのご性質の故に、嘘偽りを言うことが不可能である。その【神】が仰ることは絶対であり、捻じ曲げられることは決していない。この【神】のことばが書き綴られているのが、聖書である。聖書は、【神】が初めに造られた世界には罪や死はなかったと言う。

しかし、最初の人間アダムが神の命令に違反したために、死がこの世界に入り込み、人を含む生き物は全てやがて死ぬ存在となった。アダムとエバの子孫である私たち人類は、生まれながらにアダムの罪の性質を持って生まれ、罪を犯さずには生きられない存在となった。そして、罪を抱えたまま死んだ人間は、一人残らず【神】のおられないところ、すなわち、いわゆる地獄というところで苦しみながら永遠の時を過ごすのだ。これが、私たち人間が受け入れなければならないバッドニュースだ。

しかし、【神】は、私たち人間を愛しておられるので、私たちが地獄に行くことを望んでおられない。そこで、全人類の罪を贖い、【神】の国に入るための道を用意してくださった。その「道」というのが、イエス・キリストである。

イエス・キリストは、【神】ご自身が罪の全くない人間として処女マリアから生まれたお方である。イエス・キリストが、私たち全人類の罪を贖うために、本来私たちが受けなければならない罪の刑罰を身代わりに受けてくださり、十字架にかかって死んでくださったのだ。そして、墓に葬られた後、イエス・キリストは三日目に蘇られた。この蘇りのイエスを、500人以上の弟子たちが目撃している。その目撃証言が、新約聖書の中で書かれている。このイエス・キリストは、復活してから40日間地上に滞在された後、雲に包まれて天に昇られたため、今私たちの目には見えない。しかし、今も生きて、天で大祭司として私たちのために執りなしてくださっている。

このようなお方としてイエス・キリストを信じ、そのご人格に信頼した者は、罪が全て赦され、永遠のいのちが与えられる。つまり、一度死んでも、イエスが復活されたように、復活することができるのだ。そして、将来、【神】や他のイエスを信じる人たちと共に、罪も悪も悲しみも苦しみも嘆きもない、完璧な世界で永遠に生きることができる。これが、【神】が聖書を通して私たちに伝えてくださっているグッドニュースである。【神】は、全知全能であり、真実なお方なので、この約束を果たす能力があり、ご自身の栄光にかけて、必ず約束を成就される。このグッドニュースを受け取り、罪の赦しと永遠のいのちを自分のものにした人こそ「間に合っている」人なのだ。

ヨハネの福音書 3章16節
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"

是非、新年のこのタイミングで、イエス・キリストを信じ、真に「間に合っている」人になって頂きたい。

  • 2024/08/01
  • 信仰 

神が行くってゆうたら、絶対行くねん!

日本人の神概念とはどのようなものだろうか?かつての私にとって、神とは分業の神である。学問の神様はここ、恋愛の神様はここ、交通安全の神様はここ、というように、全国各地の神社や仏閣に行って、お札を買ったり、お賽銭をしたりすることで、ご利益にあやかろうとしていた。それで願いが叶えられたような気がしたり、しなかったり。なんと曖昧で、いい加減なことか。しかし、そのようなものだと思って、あまり気にもしなかった。周りの人たちが有り難がっているから、自分も何となく有り難がっていた。それが、かつての私の神概念だった。

しかし、聖書に出会い、その考え方が180度変わった。私がかつて神だと思っていたものは、何の力もない、ただの偶像でしかなかったのだ。石や木の像が私を助けてくれるはずがない。そんなこと分かっていたはずなのに、改めてその事実を突きつけられた時、衝撃を感じた。そして、真の神は、天地万物を造られた創造主であることを知った。創造主であるが故に、神は唯一無二のお方である。このお方は、ご自身のかたち(神に似た存在)として人間を造り、人間を愛された。どれほど愛されたかというと、神ご自身がイエスという人間となられ、罪のために滅びるしかない人間の身代わりとなって、十字架の上で罪の刑罰を一身に受け、死んでくださるほどに、私たちを愛してくださっているのだ。

この神は、ご自身の計画を持っておられ、その計画を寸分違わず全て成就される。それゆえ、神がこうなると仰れば、必ずその通りになる。そのことを教えている聖書箇所の一つをご紹介しよう。それは、マルコの福音書の4章35節から41節である。ある日、イエス・キリストは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。そして舟に乗ってガリラヤ湖を航行していたが、激しい突風が起こった。波が舟の中に入って、舟が水でいっぱいになった。

弟子たちは舟が沈むことを恐れていたが、イエスは船尾で寝ていた。弟子たちはイエスを起こして、助けを求めた。するとイエスは起き上がって、風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言うと、風がやみ、すっかり凪になった。

この出来事を通して、弟子たちは、イエスというお方は風や湖という自然界を支配しておられるお方であることを知った。と同時に、イエスが向こう岸へ渡ろうと言えば、たとえ道中が大嵐になろうとも、必ず向こう岸に渡ることができるのだということを知った。神であるイエスが約束されたことは、必ず成就する。これは、将来についても同じである。イエス・キリストは、ご自身を信じる者を死と罪の束縛から解放し、永遠の命を与えると約束してくださっている。そして、その者を神の国に連れて行って下さると約束してくださっている。この言葉は真実であり、私たちはそのまま信じることができる。

この神の国とは、イエス・キリストが王として全世界を統治する理想的な世界である。そして、それが1000年間続いた後、今の天と地は過ぎ去り、新しい天と新しい地がやってくる。そこで、神やイエス・キリストを信じる全ての人たちと共に永遠に生きるのである。その世界は、死も病も苦しみも悲しみもない、完璧な理想郷である。私たちはそこに必ず行くことができる。なぜなら、神がそう約束してくださったからである。神が行くってゆうたら、絶対行くねん!

  • 2021/07/01
  • 信仰

God In, God Out



如何に生きるべきか

聖書と出会い、イエス・キリストの福音を信じることによって、死という最大の問題が解決された人にとって、次の関心事は「如何に生きるべきか」という問題だと思います。神から義と認められたことによって、過去に犯した罪、現在犯している罪、そして、これから犯すであろう将来の罪も赦されている、と知った時、人間の心には2つの相反する思いが生じます。

一つは、これだけの罪が赦されているのだから、神に喜ばれる清い生き方をしよう、という思い。もう一つは、すべての罪が赦されているのだから、何をしても良いのだ、これからも好き放題に罪を犯しながら生きよう、という思い。前者を新しい性質、後者を古い性質と言います。新しい性質とは、霊的に新しく生まれた時に聖霊から与えられた性質であり、古い性質とは、救われる前から持っている罪人の性質です。

神の恵みにより、信仰によって救われた人間の心のうちには、このように新しい性質と古い性質が共存し、両者がせめぎ合っているのです。よって、新しい性質に従って生きたいのに、古い性質が現れて邪魔をする、という葛藤に直面することになります。では、どうすれば古い性質を抑え込み、新しい性質を活発に働かせることができるようになるのでしょうか。

人間の性(サガ)

ここで、気合いや修行によって古い性質を抑え込もうと頑張ってしまうのが、我々人間の性(サガ)ではないでしょうか。 しかし、この方法を採用した場合、例外なく失敗します。罪を犯さないでおこう、と意識すればするほど、罪を犯したくなるのです。  使徒パウロがローマ人への手紙7章15節でこのように言っています。

「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。」(ロマ7:15) つまり、人間の努力のみによって善を行うことはできないということです。

肉に従うか、御霊に従うか

では、どうすれば良いのでしょうか。その答えは、「肉に従わず御霊に従って歩む」(ロマ8:4)ことです。また、「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます」(ロマ8:5)とパウロは教えています。つまり、御霊に従って、御霊に属することを考えることで、新しい性質を活発に働かせ、神に喜ばれる清い生き方をすることができるのです。ここで、肉に属することと、御霊に属することを比較してみましょう。

肉に属することとは、以下のようなものです。
「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」(ガラ5:19~21)

他方、御霊に属することとは、以下のようなものです。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラ5 :22~23)

以上のように、肉に属することと、御霊に属することとは対照的なものです。これらの聖句をもとに、自分が肉に属しているか、御霊に属しているかを自己吟味することができます。

御霊に従って生きるためには

日頃、自分が目で見ているもの、耳で聞いているものは、肉に属するものでしょうか、それとも御霊に属しているものでしょうか。 英語で、「Garbage In, Garbage Out」という言葉があります。これは、ゴミのようなものを入れたら、ゴミのようなものしか出てこない、という意味です。 これを霊的生活に適用すると、肉に属するものに接して生きれば、肉的な生き方しか出来ない、ということになります。逆に言うと、御霊に属するものに接して生きれば、霊的な生き方をすることができる、いうことが出来ます。つまり、「God In, God Out」ということです。

このように、神に喜ばれる清い生き方をするためには、自らを肉に属することから分離し、御霊に属することの中に身を置くことが大切です。例えば、聖書を開いて静まってデボーションをする、主にある兄弟姉妹と交わりをする、聖書研究をする。などなど、肉に属するものから距離を取り、神との親しい交わりを持つことを生活の中心に置くことで、古い性質を抑え込み、新しい性質を活発に働かせることができます。その結果、神に喜ばれる清い生き方をすることが出来るようになります。

神を信じる私たちには自由があります。その自由を、放縦な生活のために用いるのではなく、神から受けた愛に応答するために用いたいですね。そうした選びをすることで、人間にとって本来の最も幸せな生き方をすることができるのです。God In, God Outを心がけて生きようではありませんか。

単 立 広 島 平 和 教 会

〒734-0021広島県広島市南区上東雲町9-10
Copyright © 2021 広島平和教会 All rights reserved.