2024年エシュコル掲載メッセージ



  • 2024/10/01
  • 携挙 

聖書が語る「奥義」を伝授致す。

「奥義」と聞くと、何やら「北斗百裂拳」のような必殺技をイメージするかもしれない。しかし、聖書が語る奥義とは、そのような類のものではない。聖書で言う「奥義」とは、旧約聖書では啓示されていなかった真理のことである。新約聖書になって、使徒たちを通して初めて明らかになった真理を奥義という。では、奥義にはどのようなものがあるか。例えば、奥義としての王国、イスラエル人の一部が頑なになった理由、教会とキリストの関係などがあるが、今回、皆様に伝授したい奥義は「携挙」である。

携挙とは、教会が天に上げられることを言う。これを聞いて、教会堂の建物が空に浮かんでいる映像を思い浮かべた方がおられるかもしれない。そうではない。ここで言う「教会」とは、「普遍的教会」、つまり、紀元30年のペンテコステの祭りの日に聖霊が降臨して以降、携挙が起こる日までの間にイエス・キリストを信じて救われた信者の集合体のことである。この時、既に死んでいた信者は、栄光のからだに蘇り、生きている信者は、生きたまま栄光のからだに変えられる。そして、空中で主イエス・キリストに会い、そのまま神がおられる第三の天に連れて行って頂ける。

今私たちが持っている肉体は、地上で生活するのに適した体であるのに対し、「栄光のからだ」は、天で生活するのに適した体である。地上の体は死ぬと朽ちるが、栄光のからだは死ぬことがなく朽ちることはない。イエス・キリストを救い主として信じた者は、永遠のいのちが与えられているので、永遠に生きられる体が与えられるのだ。その体が与えられるのが、携挙の時である。携挙こそ、私たちクリスチャンが抱いている復活の希望が成就する瞬間なのである。

携挙がいつ起こるか、誰も知らない。主イエス・キリストでさえ知らない。父なる神だけがご存じである。今日かもしれない、明日かもしれない、1000年後かもしれない、しかし、神の時が来たら直ちに起こるのが携挙である。ただ、この携挙は、7年間の大患難時代が始まる前に起こることだけは、聖書から明確に教えられている。そして、今の世界情勢を見た時に、その大患難時代がもう目の前まで迫っていることが、肌感覚として感じられる。ということは、大患難時代の前に起こる携挙の時まで、あとわずかだということになる。

携挙は、異邦人(非ユダヤ人)の救われる数が満ちた時に起こる。つまり、携挙に与ることができる最後の一人が救われた時、携挙が起こるのだ。これは、ノアの箱舟の戸が閉じられた時、地球全体を覆う大洪水から守られる者と、そうではない者が分けられたのと同様である。今、イエス・キリストという箱舟の扉は開いている。そして、まだイエス・キリストを信じて救われていない人が箱舟に入るのを神が忍耐を持って待ってくださっているのだ。この箱舟に乗り損なった者は、前代未聞の天変地異、世界戦争、大飢饉、疫病などで人類の大半が死に絶える大患難時代を通過しなければならない。そんな目に遭う前に、救いを受け取って、共に携挙に与ろうではないか。救われるために必要なことは、以下の福音の3要素を信じるだけである。

福音の3要素
①創造主なる神が人となられたイエス・キリストが、あなたの罪を贖うために身代わりとなって十字架で死んでくださったこと。
②また、墓に葬られたこと。
③また、三日目に蘇られたこと。
そして、復活されたイエス・キリストは、今も生きてあなたを救うことができる救い主であると信頼した時、あなたの罪は全て赦され、永遠のいのちが与えられ、携挙の時に栄光のからだを頂き、天に上げられるのだ。

永遠の滅びである地獄に行くのか、それとも、永遠の祝福である天国に行くのか。その分かれ目は、福音の3要素を信じて、神に信頼するかどうかである。是非、このグッドニュースを信じ、携挙という最大の奥義を受け取って頂きたい。

  • 2024/08/01
  • 信仰 

神が行くってゆうたら、絶対行くねん!

日本人の神概念とはどのようなものだろうか?かつての私にとって、神とは分業の神である。学問の神様はここ、恋愛の神様はここ、交通安全の神様はここ、というように、全国各地の神社や仏閣に行って、お札を買ったり、お賽銭をしたりすることで、ご利益にあやかろうとしていた。それで願いが叶えられたような気がしたり、しなかったり。なんと曖昧で、いい加減なことか。しかし、そのようなものだと思って、あまり気にもしなかった。周りの人たちが有り難がっているから、自分も何となく有り難がっていた。それが、かつての私の神概念だった。

しかし、聖書に出会い、その考え方が180度変わった。私がかつて神だと思っていたものは、何の力もない、ただの偶像でしかなかったのだ。石や木の像が私を助けてくれるはずがない。そんなこと分かっていたはずなのに、改めてその事実を突きつけられた時、衝撃を感じた。そして、真の神は、天地万物を造られた創造主であることを知った。創造主であるが故に、神は唯一無二のお方である。このお方は、ご自身のかたち(神に似た存在)として人間を造り、人間を愛された。どれほど愛されたかというと、神ご自身がイエスという人間となられ、罪のために滅びるしかない人間の身代わりとなって、十字架の上で罪の刑罰を一身に受け、死んでくださるほどに、私たちを愛してくださっているのだ。

この神は、ご自身の計画を持っておられ、その計画を寸分違わず全て成就される。それゆえ、神がこうなると仰れば、必ずその通りになる。そのことを教えている聖書箇所の一つをご紹介しよう。それは、マルコの福音書の4章35節から41節である。ある日、イエス・キリストは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。そして舟に乗ってガリラヤ湖を航行していたが、激しい突風が起こった。波が舟の中に入って、舟が水でいっぱいになった。

弟子たちは舟が沈むことを恐れていたが、イエスは船尾で寝ていた。弟子たちはイエスを起こして、助けを求めた。するとイエスは起き上がって、風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言うと、風がやみ、すっかり凪になった。

この出来事を通して、弟子たちは、イエスというお方は風や湖という自然界を支配しておられるお方であることを知った。と同時に、イエスが向こう岸へ渡ろうと言えば、たとえ道中が大嵐になろうとも、必ず向こう岸に渡ることができるのだということを知った。神であるイエスが約束されたことは、必ず成就する。これは、将来についても同じである。イエス・キリストは、ご自身を信じる者を死と罪の束縛から解放し、永遠の命を与えると約束してくださっている。そして、その者を神の国に連れて行って下さると約束してくださっている。この言葉は真実であり、私たちはそのまま信じることができる。

この神の国とは、イエス・キリストが王として全世界を統治する理想的な世界である。そして、それが1000年間続いた後、今の天と地は過ぎ去り、新しい天と新しい地がやってくる。そこで、神やイエス・キリストを信じる全ての人たちと共に永遠に生きるのである。その世界は、死も病も苦しみも悲しみもない、完璧な理想郷である。私たちはそこに必ず行くことができる。なぜなら、神がそう約束してくださったからである。神が行くってゆうたら、絶対行くねん!

  • 2024/07/01
  • 再臨 / 福音の種まき

しるしを見分ける者は幸いである

イエス・キリストが今から約2000年前にお生まれになった時、天に一つの星が現れた。この星は、救い主(メシア)誕生のしるしであり、その星が現れることは、民数記24章17節で預言されていた。また、ダニエル書9章25節から、メシアが現れる時期が特定されていた。それゆえ、その星を見た東方の博士たちは、メシアが誕生されたことを知り、メシアを礼拝するためにエルサレムに上ってきた。それと同じように、メシアが再び来られる時がいつなのかを示すしるしについて、イエス・キリストが語られている箇所がある。それが、マタイの福音書24章に記されている「オリーブ山の説教」である。

オリーブ山での説教では、エルサレム崩壊のしるし、世の終わりのしるし、メシア再臨のしるしについて語られている。このうち、エルサレム崩壊は紀元70年に成就し、世の終わりのしるしは20世紀に入って成就し、そして、メシア再臨のしるしは、近い将来に訪れようとしている。このように、今という時代は、世の終わりの時代に突入している人類歴史の転換期なのだ。ところで、世の終わりという言葉についてだが、これはこの世界が消滅するという意味ではない。当時のユダヤ人たちは、「今いる時代」と「メシア的時代」という 2つの時代を認識していた。よって、世の終わりとは、今いる時代が終わり、メシア的時代、つまり、メシアが王として地上を統治するメシア的王国の到来を迎える直前の時期のことを意味している。

神のご計画では、この歴史は、イエス・キリストが来られて人類の罪を贖うために十字架で死に、墓に葬られ、3日目に蘇り、天に昇られた後、約2000年に渡る教会時代を経て、世の終わりを迎える、という流れになっている。この「世の終わり」が始まるしるしというのが、人類史上初めての世界戦争である第一次世界大戦の勃発である。第一次世界大戦を皮切りに、世の終わりに向けて、陣痛が徐々に激しくなるがごとく、被造世界がうめいている。20世紀に入ってから、大飢饉、大地震、パンデミックなどが急増している。そのうめきのピークが、7年間の大患難時代である。 大患難時代では、世界戦争を始め、ありとあらゆる天変地異が起こる。この大患難時代の最後に、メシアの再臨が起こる。オリーブ山の説教では、このメシア再臨のしるしとして、大患難時代に起こる出来事が預言されている。

神は、なぜこのような「しるし」を人類に啓示されたのだろうか。それは、神が歴史を支配し、導いておられることを人間に知らしめるためである。そして、確かに神が預言なさった通りに歴史が進展していくことを目撃することを通して、私たちは神が神であられることを知り、神の偉大さを褒め讃えることになる。そのために、神はしるしを用意されたのだ。神が過去に預言なさったことは100%全て文字通りその通りに成就した。そうであれば、これから先に預言なさっていることも100%全て文字通りに成就すると信じるのが合理的な結論である。そのような信仰を持つ者にとっては、「しるし」は、その時代がどのような時代であるかを知るための極めて重要な情報となる。

このことは、自然界の中でも言えることである。例えば、いちじくの木の枝が柔らかくなり、葉が出てくると、夏が近づいていることが分かる。そのように、世の終わりのしるしが現れたら、世の終わりが近いことが分かるのである。先述した通り、2024年という今の時代は、世の終わりのしるしがことごとく成就した、終わりの中の終わりの時代であり、大患難時代を目前に控えた、差し迫った時代である。

そのことを受け止めた者として今なすべきことは、まずイエス・キリストの福音を信じて救われることだ。また、福音を一人でも多くの人に伝え、神が救いに予定されている人が全て救われるように祈ることだ。そして、いつメシアが再び来られても良いように、霊の目を覚まし、キリストの前に立つことができるように、清い生き方を求めていくことである。そのような者には、神からの祝福が与えられる。神が与えてくださったしるしを見分け、為すべきことを為す人生はなんと幸いなことか。

  • 2024/06/01
  • 教会 / 携挙

史上最大の建築プロジェクト

最も有名な建築物の一つに、サグラダ・ファミリアというスペインにある世界遺産がある。サグラダ・ファミリアは、1882年に着工されたがいまだ完成しておらず、かつては完成までに300年かかると見込まれていたそうだ。しかし、昨今のIT技術の進展などのために、大幅に工期が短縮されて約144年の工期となり、2026年の完成が見込まれている。このサグラダ・ファミリアは、地上に存在する目に見える教会堂である。それに対し、この世界には、目に見えない教会が存在する。それを普遍的教会という。普遍的教会とは、紀元30年のペンテコステの日以来、今に至るまでに、イエス・キリストを信じて救われた全ての信者で構成されている信者の群れのことである。この普遍的教会は、信者の群れであるので建物ではないが、聖書では建物にたとえられている。普遍的教会というのは、紀元30年から現在まで、約2000年間も建設中である史上最大の建築プロジェクトなのだ。

"使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。"(エペソ人への手紙 2章20~21節)

普遍的教会には、他の建築物と同様に、土台が据えられている。その土台とは、使徒たちと預言者たちであり、その要の石がイエス・キリストである。つまり、創造主なる神が人となられたイエス・キリストが、全人類の救い主として、私たちの罪を贖うために身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、また墓に葬られたこと、そして三日目に蘇られたことを信じる信仰、このようなお方としての救い主イエス・キリストが、普遍的教会の要の石なのだ。

"あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。"(エペソ人への手紙 2章22節)

この普遍的教会は、主にある聖なる宮、つまり、神が臨在してくださる神殿となっている。それと同時に、普遍的教会の構成員である一人ひとりの信者もまた、神の臨在の場とされている。私たち信者は、創造主なる神がその住まいとしてくださっている神殿であると思う時、身が引き締まる思いがする。聖霊なる神の働きによって、私たちを神殿として相応しい存在にしてくださるので、感謝に堪えない。

既に建設が始まって2000年が経とうとしている普遍的教会であるが、間も無く完成の時を迎えようとしている。なぜそう言えるかというと、神のご計画を鑑みた時、普遍的教会が完成した後に訪れる世界が、目の前まで迫っているからである。その世界とは、大患難時代である。大患難時代とは、7年間続く、全世界を襲う患難の時代である。この時、世界戦争、天変地異、大飢饉などが起こり、世界人口の大半が滅んでしまう。このような恐ろしい世界が訪れる前に、普遍的教会は完成し、天に引き上げられる。これを携挙という。

携挙は、イエス・キリストを信じて救われる異邦人(ユダヤ人以外の全ての人)の数が満ちた時に起こる。つまり、普遍的教会を建て上げる建材の最後の1ピースが埋まった時、普遍的教会が完成し、普遍的教会に属する全ての信者が、その時死んでいた者は栄光のからだに復活し、その時生きている者は生きたまま栄光のからだに変えられて、神がおられる天に上げられる。その時は、今日かもしれない、明日かもしれない。そのような時代に今私たちは生きている。私たちはその日がいつ来ても良いように、霊の目を覚まして、備えようではないか。その備えとは、イエス・キリストを救い主として信じることである。一人でも多くの方が、イエス・キリストを信じて、普遍的教会の一員となり、共に天に上げられますように。

  • 2024/05/01
  • 聖霊 / 教会

ワンチーム

「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉は世間で広く知られているが、文献の中で最初に登場したのは1844年、フランスの作家アレクサンドル・デュマ・ペールの『三銃士』だそうだ。これが早稲田大学ラグビー部のモットーとして取り入れられ、それが今や日本のラグビー協会全体のキャッチフレーズとなったと言われている。ラグビーと言えば、2019年のワールドカップで日本が初のベスト8に入り、「ワンチーム」というスローガンが流行語大賞になったことは記憶に新しい。このワンチームという概念は、キリストの教会そのものを表している。

聖書では、「みからだの教理」という教えがあり、教会がからだにたとえられている。つまり、イエス・キリストが頭であり、イエス・キリストを信じる信者一人ひとりが各器官として構成されているからだが教会なのである。人間の体は、一つの体の中に多くの器官があって、各器官がそれぞれ異なった働きをしている。そして、例えば胃が痛くなれば、体全体が苦しくなり、体全体の調和が取れている時に初めて元気に生きることができる。このように、人間の体には、一体性、多様性、調和という要素がある。これと同じように、教会にもこの3要素が備わっているのだ。教会を構成する一人ひとりの信者は、キリストのからだの一部であるという点において一体性があり、それぞれ異なった個性、能力、賜物を持っている点において多様性があり、お互いに支え合っている点において調和がある。

ところで、イエス・キリストを信じる信者は、教会の一部となっているが、それを可能とする働きをなさるのが、聖霊(=御霊)なる神である。ある人がイエス・キリストの福音を信じた瞬間、聖霊はその人をキリストと一体化させ、教会の一部に組み込む働きをされる。これを「聖霊のバプテスマ」という。バプテスマとは「一体化」を意味し、これは布を染料で染めるイメージである。聖霊はお一人なので、全ての信者は、同じ聖霊によってバプテスマを受けて、キリストを頭とする一つのからだとなる。

そして、聖霊ご自身が信者一人ひとりの内側に住んでくださるのだ。これを「聖霊の内住」という。このことを教えているのが、次の聖句である。

コリント人への手紙 第一 12章13節 "私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。"

私たちは、人種も、身分も関係なく、誰でも、イエス・キリストを信じる信仰により、神の恵みによって、罪と死の束縛から解放され、聖霊のバプテスマおよび聖霊の内住が与えらえる。これがいつから始まったかというと、今から約2000年前、紀元30年にイエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られてから50日目のことである。その日は、ユダヤ人の祭りである七週の祭りの日であり、それをギリシア語で「ペンテコステ」という。

この日、聖霊なる神が地上に降臨し、教会が誕生したのだ。それ以来、教会はワンチームとして存在し、「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」(1コリ12:26)ように召されている。教会の存在目的の最も大切なことは、神の栄光が現れることである。そして、その目的は、キリストのからだに属する一人ひとりがお互いに愛し合うことで達成されるのだ。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちもお互いを愛しあうことができるよう、聖霊の力により頼んでいこう。

  • 2024/04/01
  • 復活

ふっかつは、ほんまにあるで

「死ぬのが怖い、死んでも蘇れたらどれだけ良いだろうか。愛するあの人が蘇って欲しい。」これらは、誰しも一度は願ったことがあると思う。しかし、一度死んだ人が蘇ることは決してない、という現実を前にして、その願いはそっと胸の奥にしまい込んでいる、というのが多くの人の本音であろう。筆者も漏れなくそうであった、聖書を知るまでは。死んだ人が蘇るというのは、漫画やゲームの中の出来事に過ぎないと堅く信じていた、聖書を知るまでは。聖書を知った今、はっきりとこう宣言する。

ふっかつは、ほんまにあるで。


この主張に対する論理展開は実にシンプルである。
①聖書は、創造主なる神が書かれた誤りなきことばである。
②聖書は、復活が本当にあると教えている。
③よって、復活は本当にある。

神は真実なお方であるので、神が約束されたことは全て成就する。そのことは歴史が証明してきた。聖書はその3分の1が預言であると言われており、過去に関する預言は全て一つ残らず成就してきた。そのことは何千年もの間、歴史家たちが必死になって検証してきた結果明らかにされていることである。過去の預言が全て成就したのであれば、私たちにとって将来の預言も全て成就すると信じるのが、合理的な結論だ。

聖書は、将来、イエス・キリストが信者たちを天に迎えに来る時、キリストを信じて死んだ信者たちは栄光の体に蘇り、キリストを信じて生きている信者たちは生きたまま栄光の体に変えられて、天に引き上げられると教えている。これを、携挙という。携挙の時、復活は、本当に起こるのである。実は、過去、エノクという人物と、エリヤという預言者が、携挙されている。彼らは生きたまま天に上げられたと、聖書に記録されている。

また、聖書を見ると、イエス・キリストは、何人もの人を蘇らせている。これは、蘇生であって、復活とは違う。蘇生の場合は、再び時が来たら死ぬが、復活は、もう死ぬことはない。

キリストが蘇生させた人物で一番有名なのが、ラザロという人物である。ラザロは、ベタニヤという村に住むマルタ、マリアという姉妹の兄弟である。このラザロが死にそうである、という知らせがイエスの元に入った。しかし、イエスはすぐにラザロの元に駆けつけることはされなかった。むしろ、ラザロが死んで4日経つまで待たれた。それはなぜか?イエスが、死んだラザロを蘇らせ、神の栄光が現れることが父なる神の御心だったからである。イエスは、死後4日経った者であっても蘇らせることができるお方であることを人々が知り、イエスがメシア(救い主)であることを信じるようになるために、イエスは待たれたのだ。

イエスがラザロの墓に来られた時、マルタが出迎えに来た。その時に、イエスはラザロが蘇ると仰ったが、マルタは、それは将来に起こる終末的な蘇りのことだと思っており、今、目の前で蘇るとは思っていなかった。そこでイエスが仰ったことばが次の通りである。

ヨハネの福音書 11章25節 "イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。"

「わたしはよみがえりです。いのちです。」というのは、イエスの神性宣言である。つまり、イエスはご自身が神であるとここで宣言されたのだ。その神であるイエスを信じる者は、死んでも生きるのだ。これは、一度肉体的に死んでも、霊的には永遠に生きており、その霊的いのちがやがて栄光の体に結びつき、肉体的にも永遠に生きるようになるということだ。これが復活である。

目の前で死んだ人間を蘇らせたお方が、また、ご自身が死んで蘇られたお方が、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と約束してくださっているのだ。これ以上、信じるに足る根拠はない。それゆえ、私は宣言する。ふっかつは、ほんまにあるで。是非、イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られたことを信じ、このお方によって罪の赦しと永遠の命が与えられること、復活が与えられることを信じて頂きたい。

  • 2024/03/01
  • 神の愛

神は愛である

『神は愛である。』この言葉は、教会に足を運んだことがある方なら、誰しも聞いたことがある言葉だと思う。では、具体的に、神が愛であるとはどういう意味であるか、神の愛とは一体何なのだろうか。まず「愛」という言葉の一般的な定義について確認したい。広辞苑によると、愛とは、①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。②男女間の、相手を慕う情。恋。③かわいがること。大切にすること。④このむこと。めでること。などと定義されている。さらに見ると、⑦キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。とキリスト教における定義も記されている。この定義を見ても、なんとなく分かったような気がするが、結局はよく分からないというのが正直な感想ではないだろうか。では、これから聖書が教える神の愛について解説していきたい。

ヨハネの手紙 第一 4章10節
"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"

この聖句に、神の愛が何であるかが書かれている。神は、私たちが神を愛したから私たちを愛してくださったのではない。私たちが神に敵対し、神に背を向け、神から離れて生きている時から、神は私たちを愛してくださっているのだ。その愛は、「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました」という言葉で表現されている。これが何を意味しているかを理解することで、神の愛が何であるかを理解することができる。

まず「私たちの罪」とは何だろうか。聖書では、「罪」とは、「的外れ」を意味している。その的とは、神のことばであり、さらに言うと、神ご自身である。つまり、罪とは、神のことばを信頼せず、神から離れて生きることである。

その結果、神の属性に反すること、つまり、淫らな行い、偶像礼拝、盗み、貪欲、憤りなどの状態に陥るのである。人間はいつから罪を犯すようになったのだろうか。その答えは、神が最初に造られた人間、アダムにある。アダムが、神の命令に反して、善悪の知識の木から取って食べたことによって、神に背を向け、神から離れてしまった。これを霊的死と言う。神はアダムに、命令に違反したら必ず死ぬと言われていたが、アダムは命令に違反した時、まず霊的に死んだ。その後、時間をおいて肉体的に死んだ。神が最初に造られた世界には死は存在しなかったが、アダムが罪を犯したためにこの世界は呪われ、それ以降、生きとし生けるものは全て死ぬようになった。

アダムの子孫である私たち全人類は、生まれながらに、霊的に死んだ状態になっている。そして、霊的に死んだ状態のまま、肉体的に死んでしまった者に待つ運命は、火と硫黄の燃える池(地獄)での永遠の滅びである。なぜこのような運命が待っているのか。それは、神が完全に聖なるお方であり、罪を持ったままの人間を受け入れることができないからだ。神に受け入れられるためには、罪の問題を解決しなければならない。しかし、生まれながらに罪人である私たち人間は、自分の力で罪を解決することはできない。では、人間は滅びるしかないのだろうか。否、ここで神の愛が私たちに差し伸べられている。

神は、義なるお方である。罪を赦すためには、それに相応しい犠牲が必要である。では、人間の罪を赦すためには、どのような犠牲が必要だろうか。それは、神の御子の命である。神ご自身が、全く罪の持たない人間、神の御子として生まれ、神の義の基準を全て満たし、全人類の身代わりとなって、罪の裁きを受けることによって、人間の罪が赦される土台が出来るのだ。罪に対する神の怒りが、全て神の御子に注がれたからこそ、神の怒りが宥められたのだ。この「宥めのささげ物」となってくださった神の御子こそ、イエス・キリストである。

「イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られた。」

この福音(グッドニュース)を信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことが出来る救い主であると信頼した時、私たちの過去、現在、未来の罪は全て赦され、永遠の命が与えられる。これが、神の義である。

キリストを信じる者は、神との関係が回復し、霊的に新しく生きるようになる。それゆえ、将来、肉体的に死んでも、イエス・キリストが復活したように、必ず栄光のからだを持って復活することができる。

神は、愛する人間を永遠の滅びから救うために、御子イエスが十字架で死ぬことを良しとされたのである。ここに神の愛が凝縮されている。この愛は、全ての人に等しく差し出されている。まだこの愛を受け取っていない方は、今すぐに受け取って頂きたい。神はその時を今か今かと待っておられるのだ。

  • 2024/02/01
  • 霊的備え / 携挙

霊的備えのすすめ

2024年は、元旦から能登半島における大地震からスタートした。筆者は、遅ればせながら、防災意識が高まり、家具の固定や備蓄品の確保など、危機的状況に対する備えをし始めた。その備えをしながら、もっと大切な備えについて思いを馳せている。それは、「霊的備え」である。私たちにとって、最大の悲劇は死である。その死を避けるために防災をするのであるが、さらに、死んだ後の備えこそが、「霊的備え」なのだ。私たち人間は、神の前に一人残らず罪人であり、死後の裁きにおいて有罪を免れ得ない存在である。死後の裁きで有罪となった者には、火と硫黄の燃える池(地獄)での永遠の滅びが待っている。神は、私たち人間を愛しておられ、一人として地獄に行って欲しくないと願っておられる。それゆえ、神ご自身がイエスという人となられ、私たち全ての人間の罪を贖うために、十字架で死んでくださった。そして、イエスは墓に葬られ、三日目に蘇られた。このイエス・キリストは今も生きて私たちを罪と死から救ってくださるお方であると信頼した者は、全ての罪が赦され、永遠の命が与えられる。そして、死後の裁きで無罪とされ、御国で永遠に安らぐことができる。このグッドニュースを信じ、イエス・キリストにある救いを受け取ることこそ、霊的備え、究極の防災である。

イエス・キリストを救い主として信じた者、すなわち、クリスチャンは、霊的備えができているのだが、霊的備えにも段階がある。それは、義認、聖化、栄化という段階である。私たちはクリスチャンになった瞬間に、義認された。つまり、神に義と認められたのだ。これは一度限り起こることであり、一度義認された者は、その状態を失うことは決してない。その後、聖化という段階に入る。これは、霊的状態が徐々に清められ、キリストに似た人格へと変えられていくプロセスである。私たちは義認されても、直ちに「聖人君子」になるわけではない。依然として、生まれながらに持っている罪の性質のため、日々罪と格闘しながら生きている。

しかし、聖霊の力によって、徐々に罪から解放されていき、罪を犯す頻度が減ってくる。そして、聖化が完成する日が来る。それが、「キリストの日」、つまり、キリストが再臨する時である。より詳細に言うと、キリストが空中までクリスチャンを迎えに来られた時、クリスチャンは栄光の体に変えられて(栄化され)、天に引き上げられるのだ。これを「携挙」と言う。

クリスチャンは、キリストの日に、キリストの前に立つのだ。そのために、今から備える必要がある。その備えとは、日々キリストの教えに従って生きることである。そのためには、キリストが私たちに何を教え、どのように生きるべきであるかを聖書から学ばなければならない。そして、学んだことを生活の中で実践して、自分のものとしていかなければならない。この営みは、自分の頑張りによって成し遂げられるものではない。聖霊の助けが必要である。私たちの助け主である聖霊に心を明け渡すことによって、聖霊が私たちの心を支配してくださり、キリストの教えを守ることができるように、私たちを造り変えてくださるのだ。こうして、私たちは、知識と識別力を身につけ、大切なことを見分けることができるようになる。そして、キリストの日が来るまでに、純真で非難されるところがない者となり、豊かな義の実をつけるようになる。これは全て神の力によることである。それゆえ、その時、神の栄光と誉れが現されるのである。これが私たちの上に成就するように、パウロは次のように祈っている。

ピリピ人への手紙 1章9~11節
"私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。"

このパウロの祈りが私たちの上になりますようにと祈りつつ、日々、霊的備えをしていこうではないか。キリストの日は、もうそこまで来ている。

  • 2024/01/01
  • 神に喜ばれる生き方 / 携挙

終わりの時代の中の、終わりの時代

ハレルヤ!新年明けましておめでとうございます。
2024年も、神の誤りなきことばである聖書を正しく学び、神の御心に沿った日々を送って参りましょう。年の始めに、私たちが守るべき大切な教えを確認したい。

ローマ人への手紙 12章1~2節
"ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。"

私たちは、生まれながらに御怒りを受けるべき器であるにも関わらず、神の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によって、罪赦され、永遠のいのちが与えられた。この恵みを受け取った者として出すべき合理的結論は、全的献身である。全的献身とは、自発的に、喜んで、自分の全存在をかけて、神の御心を行う器として生きることである。その生き方をするにあたって、悪魔が支配するこの世の価値観に染まってはいけない。ポストモダンの時代である現代は、自分が真理だと思うものが真理とされてしまう。多様性という名のもとに、何でもありの時代に私たちは生きている。その中にあって、私たちは、神の国の市民として、神の価値観に堅く立って生きていかなければならない。そのために必要なことは、神の御言葉である聖書を正しく学び、神に関する知識を更新していくことである。そして、学んだことを自分の生活に適用することである。そうすることで、津波のように襲ってくるこの世の価値観から身を守り、神に喜ばれる生き方を送ることができるようになる。

2024年は、終わりの時代の中の終わりの時代である。永遠に続くかのように思われている日常が間も無く終わろうとしている。コロナ禍に入ってから、世界が一気に同じ方向に舵を切った。緊急事態という名目のもと、強力なリーダーシップ、全体主義の世の中になり、国民は自由を制限されるようになった。このままこの世は、世界統一政府に向けて突き進むだろう。また、デジタル通貨、タトゥー型ワクチン、ワクチンパスポート、AI技術による顔認識システム、 第三神殿建設計画などなど、技術的に、状況的に、大患難時代にいつ突入してもおかしくない時代になっている。ということは、大患難時代の前に起こると約束されている携挙が、より目の前に迫っていることを意識せざるを得ない。

携挙は、紀元70年以降、いつ起こってもおかしくないものである。今日かもしれない、明日かもしれないという状態が約2000年続いたわけだが、上記の通り、大患難時代が待ったなしの状態になった今、ますますその切迫度が高まっている。そのような時代に私たちはいかに生きるべきか。私たちは、緊急性と平常心を保ちながら、日々、キリストの福音を宣べ伝えることを最優先にするべきである。最近特に、こちらが予想していないタイミングで伝道の機会が与えられたり、人が救われたりすることが格段に増えてきたように思う。携挙は、異邦人の救われる数が満ちた時に起こるが、まさに神がそのラストスパートをされているように感じている。 2024年は、今まで以上に伝道に力を入れて行きたい。そのために、いつその機会が訪れても良いように、日々御言葉を学び、霊的準備を万全にしようではないか。

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