メッセージテーマ「希望」



  • 2022/12/01
  • 希望

患難の中で与えられた希望

「メシア(救い主)が誕生する地は、ベツレヘムである」という預言はあまりにも有名であるが、その預言がどのような文脈の中で与えられたかは、あまり知られていないように思う。この預言をしたミカという預言者が、どのような文脈の中で、メシア誕生の預言をしたのかを確認していきたい。

ミカという人物は、紀元前8世紀に生きた預言者であり、預言者イザヤと同世代である。彼の出身地は、モレシェテ・ガテというエルサレムから南西30kmほどの距離にある田舎町である。ミカが活動した時代は、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代であり、アッシリアからの攻撃を受けようとしている中で、彼は神のことばを民に伝えていた。彼は、裁きの預言とそれに続く回復の預言を語ることで、患難の中にある少数の真の信仰者「イスラエルの残れる者」を励ましたのである。

迫り来る裁き

まず、ミカは、迫り来る裁きについて預言した。当時、イスラエルの民は偶像礼拝の罪に陥っており、その罪のゆえに、北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、アッシリア捕囚に引かれて行こうとしていた。アッシリアは北王国イスラエルを征服した後、南王国ユダにまで迫ってくるのだ。ミカは、ユダの地が荒れ果てることを思い、嘆き悲しんだ。このユダの地が荒廃するという預言は、アッシリアではなく、バビロンの侵略によって成就する。

南王国ユダは、偶像礼拝だけでなく、貪欲の罪を犯していた。特に、裕福な上流階級の人たちが弱者を搾取していた。彼らは貧しい人たちから土地を奪っていたが、今度はそれが敵に奪われることになる。また、ユダの人々は、神の義や聖を語る主の預言者を非難していた。この罪に対する裁きが、捕囚である。

ユダは、その罪のゆえに裁きにあうが、神は彼らを見捨ててはおられない。神は、真の信仰者であるイスラエルの残れる者を必ず集めてくださる、という回復の預言を与えてくださった。この預言は、将来、大患難時代の最後に成就する。大患難時代において、イスラエル人の全人口の3分の2が死に絶えるが、3分の1が生き残ることが預言者ゼカリヤによって預言されている。その3分の1が、ボツラという地に集められ、神によって養われるのである。そして、ボツラに逃れたイスラエル人を滅ぼそうと大軍が攻め上ってきた時、イスラエル人が民族的回心を経験し、メシアが再臨されるのである。そして、メシアが彼らの先頭に立って、敵の包囲を撃破し、彼らを自由にされるのである。

裁きの後に来る祝福

次に、ミカは、イスラエルの指導者たちを容赦なく糾弾する。指導者たちは、民を守り、彼らに祝福をもたらす責務を負っていたにもかかわらず、逆に、民を搾取し、苦しめていた。この指導者たちは、厚かましくも神の助けを求めて祈っていたが、神は彼らの祈りに答えることはなかった。また、偽預言者たちが、私腹を肥やすために自らの賜物を用い、彼らを惑わせ、偽りの道へと導いていた。このような偽預言者たちに対し、神は答えを与えなかった。それにより彼らは恥を見ることになった。これら指導者層の罪のゆえに、エルサレムは滅ぼされることになった。

しかし、神は将来、エルサレムを高揚させると約束された。この預言は、メシア的王国の到来を告げたものである。エルサレムは世界中の注目の的になり、異邦人諸国がエルサレムに上ってきて、メシアから直接教えを聞き、その道を歩むようになるのである。メシア的王国では、メシアご自身が国際紛争を裁き、公平な判決を下すので、世界的平和が訪れるのである。

このメシア的王国は、「産みの苦しみ」を経た後に成就する。この産みの苦しみとは、大患難時代のことである。大患難時代において、バビロンが世界の中心地となり、イスラエルの民はバビロンに連行される。そして、異邦人の軍隊がメギドの平原に集合し、そこからエルサレムに攻め上るのである。これが有名な「ハルマゲドンの戦い」である。イスラエルの民は、大いに健闘するが、少数であるため最後は敗北する。ここまで預言した後、ミカはメシアの出現を預言するのである。それがミカ書5章2節である。

"「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」"(ミカ書 5章2節)

イスラエルの民を患難から救い出し、地に平和をもたらすのがメシアである。メシアは、ユダ部族の領地にあるベツレヘムで、人間として誕生する。このことは「昔」から定められていることであるが、この「昔」(ヘブル語の『ケデム』)という言葉は、神に関して用いられている言葉である。つまり、メシアは、神であるということである。よって、神であるお方が人としてベツレヘムという場所で生まれるということが、この箇所からわかるのである。

メシアは今から約2,000年前に来られ、全人類の罪を贖うために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られた。そして、天に昇られ、今は父なる神の右の座についておられる。そのメシアが大患難時代の最後に再び地上に来られ、イスラエルの民は一つに集められる。そして、メシアが統治するメシア的王国が実現するのである。この預言が、メシアであるイエス・キリストがベツレヘムで誕生される700年も前に預言されていたのである。ミカによるメシア誕生の預言によって、紀元前8世紀の信仰者たちは患難の中にあって大いに励まされ、希望を頂いた。そして、今を生きる私たちにとって、この預言は、イエス・キリストがメシアであることを証明するものとなった。まもなく、このお方が再びこの世に来ようとしている。その時、私たちの救いが完成するのである。この希望を見上げ、患難に満ちたこの世にあって今を生きる力を頂こうではないか。

  • 2022/04/01
  • 希望

復活信仰こそ、真の希望



初穂としての復活

イースターは、イエス・キリストが復活された、という歴史的事実を記念するお祝いである。このキリストの復活は、「初穂」としての復活であることが、コリント人への手紙第一15章20〜23節で教えられている。

"しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から よみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。"(コリント人への手紙 第一 15章20~23節)

私たち人間は、必ず死ぬ。それは、最初の人間であるアダムが全人類の代表として行動し、罪を犯したからである。しかし、イエス・キリストが神の義を全て成就し、十字架で死なれたことによって、全人類の罪が贖われた。よって、アダムという一人の人を通して死が来たが、イエス・キリストという一人の人を通して死者の復活が来たのだ。このように、死と死者の復活は、共に「一人の人を通してもたらされる」という点で共通点がある。

しかし、死は全ての人間に適用されるのに対し、死者の復活は「キリストに属している人たち」、つまり、イエス・キリストを信じる信仰を持った人間にのみ適用されるのだ。この死者の復活には、順序があり、まずキリスト、そして、キリストが再臨される時に、キリストを信じる者が復活するのである。キリストの復活は、それに続く復活があるから、「初穂」なのである。この復活信仰こそ、真の神を信じる者に持つことが許されている最大の希望である。

アブラハムの復活信仰

この復活信仰は、イエス・キリストが来られる約2,000年前に生きたアブラハムに遡ることができる。アブラハムは、ひとり子であるイサクを「全焼のささげ物として献げなさい」と神に命じられた時、復活信仰を持っていたので、この命令に従うことが出来た。なぜアブラハムは復活信仰を持つことが出来たのか。それは、アブラハムの子孫は星の数ほどになる、という神の約束を信じていたからである。神が約束されたことは必ず成就するとアブラハムは信じていたので、もしイサクが死んでも必ずイサクは蘇るとアブラハムは信じたのだ。その信仰を表すため、アブラハムは本気でイサクを殺そうとして刃物を取った。その時、神はアブラハムの信仰を認め、介入された。

神は約束されたことを必ず成就するお方であるが、神がアブラハムに約束されたことはまだ完全には成就していない。神はアブラハムに、土地、子孫、祝福の3つの約束をされた。そのうち、特に土地の約束はまだ成就していない。神がアブラハムに与えると約束された土地を所有しないままアブラハムは死んだ。これは神の約束が成就しなかったということだろうか。いや、絶対にそんなことはない。神がアブラハムに約束した土地の約束は、アブラハムが復活した時に成就するのだ。その時とは千年王国である。

千年王国の希望

千年王国とは、キリスト(=メシア)が王としてこの地上を支配する王国のことであり、メシア的王国とも呼ばれる。旧約聖書における預言のピークが、このメシア的王国である。イエス・キリストが来られた時、人々は、約束の救い主(メシア)がやってきた、すぐにメシア的王国が到来すると信じていた。確かに、ユダヤ人が民族的にイエスをメシアとして信じていれば、すぐにメシア的王国は到来していた。

しかし、イエスがメシア的奇跡(メシアにしか起こせないとされている奇跡)を起こした時に、ユダヤの宗教的指導者たちがイエスの力を「悪霊どものかしらベルゼブル」によるものだとして、イエスがメシアであることを拒否した。これがユダヤ人の民族的総意となったため、メシア的王国の到来は将来の世代に延期されてしまった。それから約2,000年が経った今、そのメシア的王国が到来する足音が聞こえてきた。

イエスは、「オリーブ山の説教」と呼ばれる、終末時代に起こる出来事を語られた時、「世が終わる時のしるし」、つまり、今の時代が終わり、メシア的王国が到来する前兆とは何であるかを預言された。それが「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります」(マタイの福音書24章7節)というものである。これは、世界戦争が起こり、世界中で大飢饉や大地震が起こるということである。人類史上、最初に起こった世界戦争とは、第一次世界大戦(1914年)であり、この時から、「終わり」が始まった。

また、20世紀に入ってからロシア、中国、ウクライナなど世界各地で数百万人規模の死者が出る飢饉が起こっている。さらに、20世紀に入ってからマグニチュード6以上の大地震の数が激増し、特に1950年から1959年までの10年間で1466回も起こり、今も同様の頻度で大地震が起こっている。まさに陣痛のように被造世界のうめきが加速しているのが今という時代である。この先、さらに未曾有の災害や戦争が起こる7年間の大患難時代が待っている。しかし、その先にメシアの再臨があり、メシア的王国が産声をあげるのである。

私たちに待っている未来

今、イエス・キリストの福音を信じて救われた私たちクリスチャンが待ち望んでいるのは「携挙」である。携挙とは、イエス・キリストが迎えに来られ、全てのクリスチャンが天に携え挙げられることである。紀元30年のペンテコステの日に聖霊が降臨し教会が誕生して以来、携挙の日までに救われた全てのクリスチャンが携挙の対象となる。携挙の日にすでに死んでいたクリスチャンは栄光のからだによみがえり、生きているクリスチャンは生きたまま栄光のからだに変えられ、キリストと共に父なる神のおられる天に行くことができる。

この携挙は、いつ起こるか誰にもわからず、父なる神のみがご存じである。しかし、大患難時代が始まる前までに起こることだけは分かっている。大患難時代は本当に厳しく、死を覚悟しなければならない。そうなる前に、携挙がまだ起こっていない今、まさにこの今という時に、イエス・キリストを信じ、救われることが重要である。クリスチャンは携挙され、大患難時代の終わりにイエス・キリストと共に地上に再臨し、千年王国に入るのである。これが私たちに待っている未来である。

最後に、救われるために必要な「福音の3要素」について確認したい。その内容は、コリント人への手紙 第一 15章3~4節に書かれている。

"私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、"

以上のことを信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことのできるお方であると信頼した時、私たちは罪赦され、永遠のいのちが与えられ、携挙に与ることができる。 一人でも多くの方が、このイエス・キリストの福音を信じ、救われ、共に携挙に与ることができるようになることを願い、祈っている。

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