メッセージテーマ「復活」



  • 2024/04/01

ふっかつは、ほんまにあるで

「死ぬのが怖い、死んでも蘇れたらどれだけ良いだろうか。愛するあの人が蘇って欲しい。」これらは、誰しも一度は願ったことがあると思う。しかし、一度死んだ人が蘇ることは決してない、という現実を前にして、その願いはそっと胸の奥にしまい込んでいる、というのが多くの人の本音であろう。筆者も漏れなくそうであった、聖書を知るまでは。死んだ人が蘇るというのは、漫画やゲームの中の出来事に過ぎないと堅く信じていた、聖書を知るまでは。聖書を知った今、はっきりとこう宣言する。

ふっかつは、ほんまにあるで。


この主張に対する論理展開は実にシンプルである。
①聖書は、創造主なる神が書かれた誤りなきことばである。
②聖書は、復活が本当にあると教えている。
③よって、復活は本当にある。

神は真実なお方であるので、神が約束されたことは全て成就する。そのことは歴史が証明してきた。聖書はその3分の1が預言であると言われており、過去に関する預言は全て一つ残らず成就してきた。そのことは何千年もの間、歴史家たちが必死になって検証してきた結果明らかにされていることである。過去の預言が全て成就したのであれば、私たちにとって将来の預言も全て成就すると信じるのが、合理的な結論だ。

聖書は、将来、イエス・キリストが信者たちを天に迎えに来る時、キリストを信じて死んだ信者たちは栄光の体に蘇り、キリストを信じて生きている信者たちは生きたまま栄光の体に変えられて、天に引き上げられると教えている。これを、携挙という。携挙の時、復活は、本当に起こるのである。実は、過去、エノクという人物と、エリヤという預言者が、携挙されている。彼らは生きたまま天に上げられたと、聖書に記録されている。

また、聖書を見ると、イエス・キリストは、何人もの人を蘇らせている。これは、蘇生であって、復活とは違う。蘇生の場合は、再び時が来たら死ぬが、復活は、もう死ぬことはない。

キリストが蘇生させた人物で一番有名なのが、ラザロという人物である。ラザロは、ベタニヤという村に住むマルタ、マリアという姉妹の兄弟である。このラザロが死にそうである、という知らせがイエスの元に入った。しかし、イエスはすぐにラザロの元に駆けつけることはされなかった。むしろ、ラザロが死んで4日経つまで待たれた。それはなぜか?イエスが、死んだラザロを蘇らせ、神の栄光が現れることが父なる神の御心だったからである。イエスは、死後4日経った者であっても蘇らせることができるお方であることを人々が知り、イエスがメシア(救い主)であることを信じるようになるために、イエスは待たれたのだ。

イエスがラザロの墓に来られた時、マルタが出迎えに来た。その時に、イエスはラザロが蘇ると仰ったが、マルタは、それは将来に起こる終末的な蘇りのことだと思っており、今、目の前で蘇るとは思っていなかった。そこでイエスが仰ったことばが次の通りである。

ヨハネの福音書 11章25節 "イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。"

「わたしはよみがえりです。いのちです。」というのは、イエスの神性宣言である。つまり、イエスはご自身が神であるとここで宣言されたのだ。その神であるイエスを信じる者は、死んでも生きるのだ。これは、一度肉体的に死んでも、霊的には永遠に生きており、その霊的いのちがやがて栄光の体に結びつき、肉体的にも永遠に生きるようになるということだ。これが復活である。

目の前で死んだ人間を蘇らせたお方が、また、ご自身が死んで蘇られたお方が、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と約束してくださっているのだ。これ以上、信じるに足る根拠はない。それゆえ、私は宣言する。ふっかつは、ほんまにあるで。是非、イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られたことを信じ、このお方によって罪の赦しと永遠の命が与えられること、復活が与えられることを信じて頂きたい。

  • 2023/04/01

死んでも生きる

「わたしはよみがえりです。いのちです。」(ヨハネの福音書11章25節)
これは、イエス・キリストがご自身を神であると宣言していることば(神性宣言)である。ヨハネの福音書は、神の子としてのキリストを描いており、その中には、このような神性宣言が7つ記されている。上述のことばは、そのうち第5番目のものである。

このことばは、ラザロという弟子が死んで4日経った時に、その姉であるマルタに語られたものである。当時のユダヤ教では、死んで3日間は、魂が肉体に戻ってきてよみがえる可能性があると信じられていた。しかし、4日経ったら、その可能性は完全になくなると考えられていた。その4日が経った時、イエスはラザロが葬られた墓にやってきて、彼を今から蘇らせようとされた。そこでイエスは、マルタに対し「あなたの兄弟はよみがえります。」と仰った。

この時、マルタは、「終わりの日」に彼がよみがえること、つまり、メシアが王として世界を統治されるメシア的王国が樹立される時にラザロがよみがえることは信じていた。しかし、彼女は、今この瞬間にイエスがラザロをよみがえらせることはできないと思っていた。そんなマルタに対し、イエスが語られたことばが「わたしはよみがえりです。いのちです。」である。

このことばには続きがある。それは、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」である。死んでも生きるとは、どういう意味だろうか。この文に省略されていることばを補うとその意味が見えてくる。省略されたことばを入れてみると、「わたしを信じる者は、(肉体は)死んでも(霊は)生きるのです。」となる。イエス・キリストを信じる者は、肉体は死んでも、霊は永遠に生きるのである。そして、将来、その生きている霊は、決して朽ちることのない栄光のからだと結びつくのである。これが、イエス・キリストを信じる者に待っている祝福だ。

イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために、私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、墓に葬られたが、三日目によみがえられた。「わたしはよみがえりです。いのちです。」ということば通りに、イエス・キリストはよみがえられたのだ。それを500人以上の弟子たちが目撃している。イエス・キリストは、復活してから40日間に渡って、弟子たちに神の国について教えた後、雲に包まれて天に昇っていかれた。今、イエス・キリストは天の聖所で大祭司として、私たちのために執りなしをしてくださっている。

イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストと同様に死んでもよみがえる。これは、現に死んでよみがえられて今も生きておられるイエス・キリストが私たちに与えてくださった約束である。それゆえ、この約束は必ず成就すると信じることができる。私たちの復活の時は、いつかなのか?それは「携挙」の時である。イエス・キリストを信じる異邦人(非ユダヤ人)の数が満ちた時、イエス・ キリストが空中に降りて来られ、信者たちを迎えに来られるのだ。 その時、既に死んでいた信者は、栄光のからだによみがえり、生きている信者は、栄光のからだに変えられて、天に引き上げられるのである。これを携挙と言う。この携挙は、いつ起こるかわからない。今日起こっても不思議ではない。そんな時代に私たちは生きているのである。

携挙が起きた後、地上では未曾有の天変地異や世界戦争などが起こる7年間の大患難時代がやってくる。この時代の中でも、イエス・キリストを信じれば救われるが、殉教の死を覚悟しなければならない。大患難時代の信者の多くは死んでしまうが、この7年間の最後に、イエス・キリストが地上に戻って来られる時によみがえる。 イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きるというのはいつの時代も同じである。しかし、携挙の前に信じるか、携挙の後に信じるかで、復活に至る道が全く異なる。イエス・キリストの何を信じるのか、その信じる内容は次の3つである。

イエス・キリストが、①私たちの罪のために死なれたこと、②墓に葬られたこと、③三日目によみがえられたこと。

そして、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことができるお方であると信頼した人は、救われ、携挙に与ることができる。是非、携挙がまだ起こっていない今、この瞬間にイエス・キリストを信じて救われて頂きたい。

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