メッセージテーマ「聖霊」



  • 2024/05/01
  • 聖霊 / 教会

ワンチーム

「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉は世間で広く知られているが、文献の中で最初に登場したのは1844年、フランスの作家アレクサンドル・デュマ・ペールの『三銃士』だそうだ。これが早稲田大学ラグビー部のモットーとして取り入れられ、それが今や日本のラグビー協会全体のキャッチフレーズとなったと言われている。ラグビーと言えば、2019年のワールドカップで日本が初のベスト8に入り、「ワンチーム」というスローガンが流行語大賞になったことは記憶に新しい。このワンチームという概念は、キリストの教会そのものを表している。

聖書では、「みからだの教理」という教えがあり、教会がからだにたとえられている。つまり、イエス・キリストが頭であり、イエス・キリストを信じる信者一人ひとりが各器官として構成されているからだが教会なのである。人間の体は、一つの体の中に多くの器官があって、各器官がそれぞれ異なった働きをしている。そして、例えば胃が痛くなれば、体全体が苦しくなり、体全体の調和が取れている時に初めて元気に生きることができる。このように、人間の体には、一体性、多様性、調和という要素がある。これと同じように、教会にもこの3要素が備わっているのだ。教会を構成する一人ひとりの信者は、キリストのからだの一部であるという点において一体性があり、それぞれ異なった個性、能力、賜物を持っている点において多様性があり、お互いに支え合っている点において調和がある。

ところで、イエス・キリストを信じる信者は、教会の一部となっているが、それを可能とする働きをなさるのが、聖霊(=御霊)なる神である。ある人がイエス・キリストの福音を信じた瞬間、聖霊はその人をキリストと一体化させ、教会の一部に組み込む働きをされる。これを「聖霊のバプテスマ」という。バプテスマとは「一体化」を意味し、これは布を染料で染めるイメージである。聖霊はお一人なので、全ての信者は、同じ聖霊によってバプテスマを受けて、キリストを頭とする一つのからだとなる。

そして、聖霊ご自身が信者一人ひとりの内側に住んでくださるのだ。これを「聖霊の内住」という。このことを教えているのが、次の聖句である。

コリント人への手紙 第一 12章13節 "私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。"

私たちは、人種も、身分も関係なく、誰でも、イエス・キリストを信じる信仰により、神の恵みによって、罪と死の束縛から解放され、聖霊のバプテスマおよび聖霊の内住が与えらえる。これがいつから始まったかというと、今から約2000年前、紀元30年にイエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られてから50日目のことである。その日は、ユダヤ人の祭りである七週の祭りの日であり、それをギリシア語で「ペンテコステ」という。

この日、聖霊なる神が地上に降臨し、教会が誕生したのだ。それ以来、教会はワンチームとして存在し、「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」(1コリ12:26)ように召されている。教会の存在目的の最も大切なことは、神の栄光が現れることである。そして、その目的は、キリストのからだに属する一人ひとりがお互いに愛し合うことで達成されるのだ。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちもお互いを愛しあうことができるよう、聖霊の力により頼んでいこう。

  • 2022/08/01
  • 聖霊

御霊による一致を保つためには

私たちは皆、それぞれ個性豊かで、一人として同じ人間はいません。性別も違えば、年齢も違うし、育った環境も、持っている能力も様々です。そのような私たちに、使徒パウロは「御霊による一致を熱心に保ちなさい」と命じています。では、どのようにすれば御霊による一致を保つことができるのでしょうか。そもそも、なぜ私たちは御霊による一致を保たなければならないのでしょうか。

新しい一人の人

神は、アブラハムという一人の人を召し、その息子であるイサク、またその息子であるヤコブ、そして、ヤコブの12人の息子たちの子孫であるイスラエルの民を、神の民として育てました。イスラエルの民は、ユダヤ人と呼ばれ、モーセの律法によって他の民族と異なった特徴を持つ民族となりました。このモーセの律法が、ユダヤ人と異邦人(非ユダヤ人)の間の垣根となっており、両者は相容れない存在として明確に区分されていました。

神は、ユダヤ人と契約を結び、この契約による祝福はユダヤ人にのみ適用されていました。異邦人がその祝福に与るためには、割礼を施し、ユダヤ人共同体の一員になる必要がありました。しかし、イエス・キリストが十字架の御業によって、モーセの律法を完全に成就されたので、モーセの律法は無効となりました。そして、ユダヤ人も異邦人も共に、イエス・キリストを信じる信仰によって、新しい一人の人を構成するようになったのです。この新しい一人の人のことを、キリストの教会と言います。

キリストのからだ

イエス・キリストを信じる者はそれぞれ、一つのからだを構成する器官であるとパウロは教えています。

"一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。"
(ローマ人への手紙 12章4~5節)

人間の体は様々な種類の器官で構成されており、各器官がそれぞれ異なる働きをしていますが、それらが有機的に結合することによって、一人の体を作り上げています。それと同じように、多種多様な信者が、イエス・キリストというお方を信じる信仰によって、有機的に結び付けられて、キリストのからだ、つまり、キリストの教会を築き上げているのです。

様々な一つ

私たちは、イエス・キリストを信じる信仰を持った瞬間に、聖霊のバプテスマを受けます。バプテスマとは、一体化することを意味しています。よって、聖霊のバプテスマとは、信者がキリストと一体となり、キリストの教会の一部に加えられることを言います。この聖霊のバプテスマは一つだけであり、他にはありません。同じように、信者に内住する聖霊(=御霊)も一つです。キリストのからだも一つであり、信仰の内容も一つです。そして、この世界を創造され、支え、支配しておられる神も一つです。このように、私たちは様々な「一つ」を共有しているお互いなのです。

御霊による一致

人間の身体は、各器官が好き勝手に動いたら、1日たりとも生きることはできません。各器官が、生命を維持するという共通目的のために、それぞれの働きをすることによってはじめて、身体は正常に機能します。それと同じように、キリストのからだを構成する私たちも、キリストの教会を建て上げるという共通目的のもと、それぞれに課された働きをすることが大切なのです。そこでポイントとなるのが、「御霊」です。御霊が豊かに働かれることによって、私たちは一致した働きをすることが可能となるのです。私たちは、互いに謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれるように、御霊に祈り求めることで、一致を保つことができるのです。

私たちは、各自に与えられた賜物を忠実に用いて、教会を建て上げていくことを使命として与えられています。正しく御言葉を学び、御霊による一致を求めて祈りながら、日々賜物を発揮して参りましょう。

  • 2022/07/01
  • 聖霊

聖霊の賜物を発揮する人生のススメ

「聖霊の賜物」という言葉を聞いたことはあっても、その内容を聖書的に正しく理解出来ているでしょうか。また、自分にはどんな賜物が与えられているか分からない、どうすればそれを発見できるか分からないという方もおられるのではないでしょうか。 これから、聖霊の賜物について聖書的に正しく学び、自分に与えられている聖霊の賜物を発見する旅に出ましょう。聖霊の賜物を見つけ、それを豊かに用いた時に、私たちはより祝されたクリスチャンライフを送ることができます。

Ⅰ. 聖霊の賜物の定義

聖霊の賜物とは、奉仕のために神から与えられた能力のことを言い、ギリシア語では「カリスマ」と言います。このカリスマと言う言葉は、聖霊の賜物という意味だけでなく、神の恵みを表している言葉で、「救い」、「摂理的な守り」といった意味もあります。聖霊の賜物は、恵みであるがゆえに、人間の努力によって得られるものではありません。

聖霊の賜物に関して様々な誤解がありますが、次のように区別しておく必要があります。まず、聖霊の賜物は、能力のことであり、それは特定の場所、地域に限定されるものではありません。また、聖霊の賜物は、それを持った人が全てそれに関する職責(役職)に就くわけではありません。また、聖霊の賜物は、特定の年齢の人々のためだけに用いられるものではありません。また、聖霊の賜物は、才能とは違って、信者にのみ与えられるものであり、教会に仕えるために用いるべきものです。そして、聖霊の賜物は、その人の霊性とは無関係であり、例えば伝道の賜物があったとしても必ずしも霊的に成熟しているとは限りません。

Ⅱ. 聖霊の賜物の特徴

聖霊の賜物は、復活し、昇天されたキリストによって教会に与えられたものであり、教会を建て上げるためのものです。また、聖霊の賜物は、キリストが源であり、聖霊が仲介者となって「みこころのままに」教会に与えられたものですので、お互いの賜物をうらやんだり、ねたんだりする必要はありません。 この聖霊の賜物は、イエス・キリストの福音を信じて、聖霊のバプテスマを受けた瞬間に与えられるものであり、全ての信者に少なくとも一つは与えられています。ただ自分にどんな聖霊の賜物が与えられているかはその時に分からなくても、霊的成長と共に発見することが多いです。全ての聖霊の賜物を持っている人はおらず、何も持っていない人もいないため、お互いがお互いを必要としているのです。

聖霊の賜物は、普遍的教会に与えられているので、1つの地域教会に全ての聖霊の賜物が与えられているわけではありません。また、ある世代の教会にすべての聖霊の賜物が与えられているわけではありません。例えば、使徒と預言者という聖霊の賜物は、初代教会時代の教会に与えられたものであり、今の世代には与えられていません。神は各人、各教会、各世代に必要なものをご存知であり、必要な聖霊の賜物を備えてくださいます。

Ⅲ. 聖霊の賜物の種類

聖書の中に、聖霊の賜物が19種類挙げられていますが、これは例示に過ぎないので、他にもあるかもしれません。しかし、ほぼカバーされていると考えられますので、これらを知ることで、無いものねだりをしなくて済みます。また、どのような種類の聖霊の賜物があるかを知ることで、自分に与えられている聖霊の賜物を発見するのに役に立ちます。

1ぺテ4:10に、「それぞれが賜物を受けている」とあることから、誰もが少なくとも1つは聖霊の賜物が与えられていることが教えられています。また、「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」とあることから、聖霊の賜物は、信者の間、教会の中で行使されるべきものであることが教えられています。私たち信者には、良き管理者として、聖霊の賜物を本来の意味において、愛に基づいて行使する責任があります。

第1 預言すること
これは神から直接の啓示を受ける人であり、預言者が語ったことは必ず成就しなければなりません。もし100%でなければ偽物です。

第2 奉仕すること
通常のクリスチャンが持つ以上に高いレベルで奉仕することができます。

第3 教えること
真理をまとめ、聞く人に分かるように語る能力が、一般的な人々より、はるかに高い人です。

第4 勧めをすること
真理を実際生活に適用するように人々を励ますことに長けている人です。第3と第4は同じ人に与えられることが多いです。

第5 分け与えること
より多くのものを分け与えることができる人です。

第6 指導すること(管理すること)
長老職に就く人はこの賜物を持っていなければなりません。

第7 慈善を行うこと
病人、貧しい人に喜んで助けの手を伸ばすことができます。

第8 使徒
使徒には特別な資格が必要です。12使徒は、イエスが洗礼を受けた時から、弟子であった人で、復活のイエスに出会った人でなければなりません。第2グループの使徒たちは、復活にイエスに出会った人でなければなりません。ですので、現在はこの資格を有する人はいないため、現代の使徒はあり得ないのです。

第9 伝道者
人々をキリストに導く上で特に大きな成果を上げる人です。

第10 牧師・教師
教師の賜物があっても、牧師の賜物があるとは限りませんが、牧師の賜物がある人は教師の賜物も備わっています。この賜物を持った人が、牧師・教師の職責に就くべきです。

第11 独身の賜物
独身生活を通して、より多くの時間と力を主の御業のために捧げることができます。

第12 知恵のことば
学んだ霊的真理を具体的状況に適用する能力に長けた人です。これは第4:勧めをする賜物と関連があります。

第13 知識のことば
御言葉を理解し、それを体系化し、関連づける能力に長けた人です。これは第3:教える賜物と関連があります。

第14 信仰
いかなる場合でも疑いなく神を信頼することができる人で、信仰の偉人たちはこの賜物を持っています。

第15 いやしの賜物
与えられたり、取り去られたりするものであり、一度与えられたからといって永続的に持っているものではありません。パウロもこの賜物を持っていましたが、自分の病を治すことはできませんでした。

第16 奇跡を行う力
与えられたり、取り去られたりするものであり、永続性はありません。

第17 霊を見分ける力
教えの源が悪霊的なものかどうかを直ちに見分けることができます。

第18 異言
学んだことのない言語を話す能力のことであり、意味のないたわごとではありません。それは文法があり、意味がある実在の言葉です。

第19 異言を解き明かす力
単一言語の会衆の中では、この賜物があることが、異言の賜物を行使するための条件となります。

Ⅳ. 聖霊の賜物の発見と開発

聖霊の賜物は、生まれつき持っている才能や能力とも、習得した技術とも異なります。聖霊の賜物は、信じた瞬間に神から与えられたものですが、必ずしも自分に与えられている賜物に気付かないままで人生が終わることもあります。ですから、自分に与えられている聖霊の賜物を発見する必要があります。

そのためには、まずどういう聖霊の賜物があるか知ることが重要です。聖書にリストされている19個の聖霊の賜物について知り、そのリストにない賜物を求めるべきではありません。また、聖霊の賜物は、キリストのからだを建て上げるために与えられているので、教会の活動に積極的に係り、信徒の交わりの中でお互いに仕え合うことで、自分の賜物を発見することができます。自分の賜物は、他の誰かが教えてくれることが多いため、お互いにお互いの賜物を教え合うことが大事です。信者は、複数の賜物を持っていることが多いので、一つの賜物を発見して満足することなく、複数あるという前提で、積極的に教会活動に関わり、賜物を探す努力をすることが大切です。

最後に

聖霊の賜物のリストを見ても、自分にはどんな賜物があるか分からないという方がおられるかもしれません。そのような時は、是非どんなことでも良いので、教会や聖書研究グループで奉仕をしてみましょう。その奉仕をしていて楽しい、周りの人に喜んでもらえた、といった経験から、自分の賜物を発見することができると思います。自分の賜物を発見して、それを磨き、豊かに用いて行く時に、私たちは最高の生き甲斐を感じることが出来ます。

  • 2022/06/01
  • 聖霊

聖霊の6つの働き

今年は6月5日がペンテコステの日、つまり、聖霊が降臨したことをお祝いする日です。前回に引き続き、聖霊について聖書的に正しく学びたいと思います。今回は、聖書の6つの働き、すなわち、新生、内住、聖霊のバプテスマ、証印、油注ぎ、聖霊の満たしについて確認したいと思います。これらの働きを理解することで、今の時代に聖霊がどれほど重要な働きをしておられるか、また、私たちがどれほどの恵みの中を生きているかを知ることができます。

Ⅰ. 新生

新生とは、イエス・キリストを信じた瞬間に経験する救いの始まりであり、救いの完成に向かうための土台です。この新生には、①新しいいのち、②霊的誕生、③霊的復活、④新しい創造、⑤信じた瞬間に神の子として受ける永遠のいのち、という意味が込められています。 新生は、人間の努力によってなされるものではなく、神が私たちに与えてくださるものです(ヨハ1:13)。また、神の国に入るためには、超自然的誕生、つまり、新生が必要です(ヨハ3:5~6)。そして、イエス・キリストを信じて新生した者は、新しく造られた者となるのです(2コリ5:17)。 この新生は、人の体験や感情とは区別されるべきものであり、感情が伴う人もいれば、そうではない人もいます。新生した人は、新しい性質を受け、徐々に神の性質を慕い求めるようになります。そして、肉体的に生まれた人が母の胎内に戻ることが出来ないのと同様に、新生によって与えられた「永遠のいのち」は、決して取り去られることはありません。

Ⅱ. 内住

内住とは、聖霊が信者のうちに住んでおられることを意味しており、信者に対する聖霊のすべての働きの基礎となるものです(ロマ8:9、1コリ3:16)。 聖霊の内住は、人間の努力によるものではなく、神からの一方的な贈り物であるため、すべての信者がこれを受けています。旧約時代にも一部の人に聖霊の内住がありましたが、取り去られることがありました。しかし、メシアの死と復活により、聖霊はすべての信者に永久に内住するようになりました。 聖霊の内住の結果、信者は聖霊の宮となりました。聖霊は、信者個人に、また、地域教会に、そして、普遍的教会に宿ることになりました。

Ⅲ. 聖霊のバプテスマ

聖霊のバプテスマとは、信者がキリストと一体となり、キリストの教会の一部に加えられることを言います。 この聖霊のバプテスマは、恵みの時代に入ってから与えられた祝福であり、すべての信者が聖霊のバプテスマを受けています。また、聖霊のバプテスマは、信者を教会に繋げるものであって、後になって繰り返されるものではない、一度限りのものです。聖霊のバプテスマの結果、信者はキリストの死、埋葬、復活に繋がり、キリストのからだに連なりました。 使徒の働きにおいて、聖霊のバプテスマの結果として異言があったのは、賜物としての異言であり、それは使徒たちが語る福音の権威、信頼性を証明するために与えられたものです。普遍的に異言が語られると教える記述は聖書のどこにもないため、異言を聖霊のバプテスマのしるしと考えてはなりません。聖霊のバプテスマの結果は、異言ではなく、教会の一員になることです。

Ⅳ. 証印

聖霊の証印は、ペンテコステ以降に、信者に与えられるようになった祝福です。この証印は、神様と信じる側との契約が必ず実行されることの保証となっています。 私たちが御国を受け継ぐこと、また、私たちの贖いが完成することは、神の栄光に繋がります。それが必ず成就する永遠の保証として聖霊の証印が押されているのです。この証印が押されたことによって、私たちは、神の所有物となっているため、神の主権が私たちに及び、私たちには神から委ねられた責任があり、神の守りが保証されています。 この聖霊の証印は、信じた瞬間に信者全員に与えられるものであり、完全に神の働きによるものなので、証印を求めて祈るようにとの勧めはありません。また、聖霊の証印は、それが押されたことを体験的に認識するものではなく、信じた瞬間に聖霊の証印が押されているのだという神のことばを、信仰によって受け入れるべき真理です。その後に、体験や力や喜びが湧き上がってくるのです。

Ⅴ. 油注ぎ

油は聖霊を象徴しており、人物や物に油を注ぎかけると、それは聖なるものとなります。油注ぎによって、主から与えられた任務を全うするための力が与えられます。 旧約時代における油注ぎの例として、幕屋の器具や祭司や大祭司を聖別するための油注ぎ、サウルやダビデが王としての任務に相応しい力を受けるための油注ぎ、エリシャが預言者としての力を得るための油注ぎなどがあります。このように、旧約時代の油注ぎは、任務の遂行と深い関係があります。 新約時代の油注ぎの例として、キリストが受けた油注ぎと、新約時代の信者が受ける油注ぎがあります。キリストが受けた油注ぎは、旧約時代のそれと同じで任務遂行のためでした。しかし、新約時代の信者が受ける油注ぎは、回心の時に起こることで、それには永続性があります。この油注ぎは、キリストとの関係に関わる事柄であり、御言葉の真理を理解する力と関係があります。 旧約時代の油注ぎは、神から召命を受けた特定の人々にしか起こらず、その体験は繰り返されることがありました。それに対し、新約時代の油注ぎは、全ての信者に起こっており、その体験は永続性があります。

Ⅵ. 聖霊の満たし

聖霊の満たしは、信者の霊的成長と関係がある聖霊の働きのうちの一つです。聖霊の満たしは、聖霊の支配に服することであり、信者が自分の心を開いた時に起こるものです。 心のある部分を聖霊に対して開くと、その部分が聖霊の支配下に置かれ、また別のある部分を聖霊に対して開くと、そこも聖霊の支配下に置かれるというように、新しい領域を聖霊に委ねた時に、聖霊の満たしは繰り返し起こります。 新生・内住・聖霊のバプテスマ・証印・油注ぎの5つに関しては信じた瞬間に起こることであるので、それらに関する命令はありませんが、聖霊の満たしについては、「御霊に満たされなさい」(エペ5:18)のような命令があります。この聖霊の満たしは、聖霊がしてくださることであり、信者は従順になって聖霊の満たしをして頂ける状態を自ら作ることが求められています。

まとめ

以上が、聖霊の6つの働きです。私たちはイエス・キリストを信じた瞬間に、聖霊はこれほどの偉大な御業を為されておられるのです。今、私たちが求めるべきは、聖霊の満たしです。 聖霊に心を明け渡し、聖霊の支配の中で生きていくことができますように。

  • 2022/05/01
  • 聖霊

陰の主役『聖霊』にスポットライトを当てる

イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られた後、40日後に父なる神の御許に昇天されました。その10日後に、聖霊が降臨し、教会が誕生しました。それ以降、今日まで続いている教会時代は、聖霊が中心的に働く時代です。その教会時代に生きる私たちにとって、聖霊の働きは必要不可欠であるにも関わらず、キリスト教界では聖霊に関して混乱が生じています。聖書的に聖霊を正しく理解することは、私たちの日々の生活が祝されるために非常に重要となります。今回と次回で、聖霊の働きについて聖書的に正しく学びたいと思います。

Ⅰ. 聖霊とは?

聖霊は人格を持ったお方である。 聖霊は自分のことを語らず、聞くままを語るお方であり、その本質は、キリストを目立たせることにあります。それゆえ、聖霊は目立つことがなく、教会史の中で軽視されてきました。ある人たちは、聖霊を神が働かれる力を擬人化したものであるとして、聖霊の人格を否定しました。しかし、聖霊の人格を否定するというのは、聖書の教えに反するものです。

聖霊というお方には、人格が持つ特徴である「知情意」が備わっています。聖霊は神の御心を探り、それを知っておられ、また人の心を探り知り、聖徒のためにとりなしをされます。また、聖霊は悲しむことがあるお方であり、意志をもってパウロの宣教を導かれたり、思いのままに賜物を分け与えてくださったりするお方です。また、聖霊は、信者を真理に導いたり、奇跡をおこなわれたり、人から欺かれたり、エルサレム会議の決定に参加されたりなど、人格を持つ存在として行動しておられます。

聖霊は神である。

主イエスが、ヨハ14:16で聖霊を「もうひとりの助け主」と仰いましたが、これは聖霊が主イエスと同質の別の存在であることを意味しています。つまり、聖霊は御子イエスと同じ神性をもっているということです。また、聖霊は「主の御霊」、「イエスの御霊」、「神の御霊」などと呼ばれているように、聖霊の呼び名がその神性を証明しています。

聖霊は、全知全能であり、遍在なるお方です。また、聖書に霊感を与え、処女降誕を可能にしました。これらの聖霊の性質と行動は、聖霊が神であることを証明しています。また、新約聖書は聖霊を【主】(ヤハウェ)と同じと見ており、聖霊を冒涜することは神を冒涜することとされており、「父、子、聖霊の御名」として聖霊が父と子と同列に置かれていることからも、聖霊が神であることが示されています。

Ⅱ. 時代ごとの聖霊の働き

旧約時代
聖霊は全知全能の力をもって天地創造の御業に参加されました。また、聖霊は、ダビデやイザヤのような預言者に神の思いを啓示し、それを誤りなく理解し、書き記すように導かれました。旧約時代における聖霊の働きは、一部の人たちの中に宿る、ある人たちの上に下る、ある人を満たし、導くなど、その範囲が限定的でした。また、その働きは一時的であり、聖霊がその人から離れることもありました。よって、新約時代と異なり、聖霊の臨在が永遠に続くという約束はありませんでした。

福音書時代
イエス・キリストが乙女マリアから生まれる時、聖霊の力によって、生まれる子は聖なる子となることが保証され、イエスは罪がない存在として生まれました。この処女降誕は聖霊の働きなしにはあり得ないことでした。キリストは、聖霊に満たされ、聖霊の油注ぎを受け、聖霊によって力を受けて公生涯を歩まれました。人間としてのイエスは、神としての性質を利用して力を発揮したのではなく、聖霊の導きに完全に従うことによって、また、父なる神の御言葉に従うことによって、あのような完璧な公生涯を送ることができました。それゆえ、聖霊の働きがなければ、イエスがあのような公生涯を送ることはできなかったのです。

教会時代
父なる神は遍在の神ですが、天にいます神でもあります。また、子なる神も遍在の神ですが、父なる神の右の座に座しておられます。このように、聖霊なる神も遍在の神であると同時に、ペンテコステの日を境に、この地を住まいとするようになりました。

現在の聖霊の主な働きは伝道です。つまり、罪について、義について、さばきについて一人一人の心に示すことによって、人々を救うことが、今の聖霊の中心的働きです。私たちが伝道する時に、聖霊が語ろうとされていることと私たちが語っていることが完全に一致しなければなりません。罪とは、神を信じないことであり、特にイエスをメシアとして信じないことが罪の本質です。また、義とされる、つまり、神の前で正しいとされることは、自分が努力するのではなく、既に義を達成したイエスを信じることによって与えられるのです。そして、やがてすべての人は裁かれます。サタンは既に裁かれているので、サタンに従うならば、自分が従っている者(サタン)と同じ運命になります。だから赦しを受けなければならないのです。私たちはこのことを語らなければなりません。これが今の時代における聖霊自身のお働きです。

携挙〜大患難時代
将来、教会が携挙された時、聖霊は天に戻られます。それによって、悪魔の力を抑えている力が取り去られるため、悪魔がしたい放題する大患難時代がやってくるのです。それでも聖霊は依然として遍在の神であり、ペンテコステ以前の働きの状態で働きを続けられます。

Ⅲ. 最後に

陰の主役
聖霊というお方は、恵みの時代である今、神の計画を進めておられる主役ですが、ご自身を主張せず、キリストの栄光を表し、人々を救いへと導いておられます。まさに、陰の主役と言えます。この陰の主役は、私たち人間を用いて、神のご計画を進展されるお方です。それゆえ、私たちは、私たちの役割をしっかりと認識することが、聖霊が豊かに働かれるために重要なこととなります。人類救済計画という大舞台で、陰の主役と共に大胆に演じる、ダイナミックな人生を送っていこうではありませんか。

単 立 広 島 平 和 教 会

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