メッセージテーマ「イエス・キリスト」



  • 2026/02/01
  • イエス・キリスト / 福音

人生を照らす光の正体とは?

親が敷いてくれたレールに乗って生きてきた子ども時代から、大人になり、自分の人生は自分で切り拓いて行かなければならなくなった時、まるで宇宙空間に一人放り出されたような孤独を感じたことがあった。そのような青年期を経た後、人生の目標を定め、その目標が正しいと信じ、その実現に向けて生きてきた。しかし、人生の試練に直面するたびに、その目標は本当に正しいのだろうか、自分を幸せにしてくれるのだろうか、と不安になる。それでも、その道を歩み続けるしかない。この世の少なくない人たちがそのような中を必死に生きているのではないだろうか。筆者は33歳の時に、まさに五里霧中と言える人生に一筋の光が差し込んだ。進むべき方向を求めてあれでもないこれでもないと思いあぐねていた探究の日々に終止符が打たれ、生きるべき道が明確に示された。その時、将来への不安が吹き飛んでいき、確信を持って、平安の中を歩む人生のスタートを切ることができた。それから約8年が過ぎ、その確信は益々強められ、手応えを感じながら生きることができている。

  33歳の時に感じた光の正体は、イエス・キリストというお方だった。このお方は、霊の目に覆いがかかっていた筆者に介入してくださり、その覆いを取り除けてくださった。そして、真理の光で照らしてくださったのだ。といっても、何か超自然的な現象が起こったのではない。私たちの目には偶然とも思える出来事の連続の中で、そのように導いてくださったのだ。これを神の見えざる御手、あるいは、摂理という。この世界を造られた創造主なる神は、私たち一人ひとりを見えざる御手をもって導いてくださっている。そのことに気づいて神の示す方向に向かうか、そうでないかで、行き先が全く異なる。神は全ての人をイエス・キリストを通して、ご自身の元に立ち返るように招いておられる。その招きに応答したものには祝福が約束されている。

聖書は、神の元に帰る「道しるべ」である。聖書に書かれている神の御言葉に従って歩むことで、私たちは神に近づくことができる。かつて神が雲の柱、火の柱となってイスラエルの民の先頭に立って約束の地へと導かれたように、聖書の御言葉が私たちを神の御許へと導いてくれるのだ。御言葉を学び、御言葉に従って生きることが、私たち人間に与えられた祝福の道である。そのことに気づいたのが33歳の時だった。聖書には、私たち人間がどこから来て、どこに行こうとしているのかが書かれている。今までの人類歴史がそうであったように、これからの未来も聖書に書かれている通りに進んでいく。

  聖書は、まもなくイエス・キリストが再びこの世に戻ってくると教えている。その時、イエス・キリストを救い主として信じているか、そうでないかで、人類は二分される。前者は神の国に、後者は火と硫黄の燃える池に行くことが定められているのだ。この厳粛な真理を前にどのように応答するかが今、全人類に問われている。まだイエス・キリストを信じていない方は、今、このお方を信じる決断をし、永遠の祝福を受け取ろうではないか。信じる内容は次の3つである。
①イエス・キリストは私たちの罪のために死なれたこと。
②イエス・キリストは死んで墓に葬られたこと。
③イエス・キリストは三日目によみがえられたこと。
この3つを信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことができるお方であると信頼した者は、全ての罪が赦され、永遠のいのちが与えられる。そして、将来、完璧な理想郷である神の国に入ることができる。是非、共に神の道を歩み、平安と喜びの中を生きていこう。

  • 2026/01/01
  • イエス・キリスト

光は闇を駆逐する

新年明けましておめでとうございます!
年の初めに、この世界の「はじめ」に思いを馳せたいと思います。創世記1章1節に「はじめに神が天と地を創造された。」という言葉があります。この「はじめ」とは、被造世界が生まれた時のことを指しています。創造主なる神は、物質世界が全くないところに、「ことば」によって次々と物質を生み出し、この世界を創造されました。私たちにとっては、この「はじめ」こそが全てのはじめだと思いがちですが、更なる「はじめ」があるのです。それが、ヨハネの福音書1章1節の「はじめ」です。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という御言葉にある「初め」とは永遠の昔のことです。被造世界が出来るより前、神しか存在していない「はじめ」のことです。

創造主なる神は、何かによって造られることなく、ご自身の力によって永遠の昔から存在しておられます。そして、その神は三位一体の神です。「父、子、聖霊」の3つの位格(人格のようなもの)において存在している唯一の神です。その第二位格の子なる神のことを、この聖句では「ことば」と表現しています。「ことば」なる神が、ことばによってこの世界を造られたのです。この「ことば」こそ、命の源であり、私たちを照らす光です。この「ことば」なる神こそ、神が人となられたイエス・キリストです。

イエス・キリストは、いのちを造られたお方であり、このお方のうちにいのちがあるので、ご自身を信じる者に永遠のいのちを与えることがお出来になります。イエス・キリストは、世の光として、この世の闇を駆逐されます。

私たちが生きている今の世界を見ると、闇が支配しているように見えるかもしれません。しかし、それは一時的なことであり、光であるイエス・キリストが再びこの地に来られた時に、闇は消え去ります。私たちはイエス・キリストにあって圧倒的な勝利者とされていますから、恐れる必要はないのです。

イエス・キリストという希望の光に目を向けた時、私たちの心から恐れは消え去ります。それは、真っ暗な部屋に電気をつけた時に、闇が消え去るのと同じです。イエス、キリストを心に迎えた者は、そのように恐れから解放されるのです。2026年も皆様の心の中にイエス・キリストという光が輝き、祝福に満ちたものとなりますように。

  • 2025/08/01
  • イエス・キリスト / 平安 

この世の価値観に疲れ果てた方へ

私たちが生きる今の世は、効率性、生産性が重んじられ、如何に世の中に役立つ人間かどうかが問われる時代だ。そんな中、多くの人たちが疲弊し、自らの価値を見出せず、苦しみの中を生きている。しかし、そのような価値観は、この世界を造られた創造主なる神から出たものではない。

神は、人をご自身のかたちに創造された。それゆえ、人とは本来ただ存在しているだけで価値があり、尊いのだ。その本来の価値観を否定し、誤った価値観によって私たちを苦しめているのは、神に敵対する存在、すなわち、悪魔である。悪魔は、神が造られた良きものを破壊し、自分が神のようになることを目的としている。それゆえ、悪魔は人を神から引き離し、この世の神として自分を拝むように世界を牛耳っているのだ。神は、直ちに悪魔を滅ぼすこともできたが、そうすると、悪魔の支配下にある人をも滅ぼすことになる。神は、私たち人間を愛しておられ、一人でも多くの人が神に立ち返り、永遠のいのちを持って欲しいと願っておられるので、その時を忍耐して待ってくださっているのだ。

神は、今から約2000年前に、イエスという人間として処女マリアから生まれ、この世に来てくださった。そして、イエスは、神の義をすべて全うされ、十字架の上で全人類の罪を贖うために身代わりとなって死んでくださった。そして、墓に葬られ、三日目によみがえられた。その後、イエス・キリストは、元々おられた天に帰られ、大祭司として今も人類のために働いてくださっている。神は、イエス・キリストをこのようなお方として信じる者の罪をすべて赦し、永遠のいのちを与えてくださる。この救いを一人でも多くの人が受け取るのを神は待っておられる。それが今という時である。

イエス・キリストは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と仰った。当時のユダヤ人は、口伝律法という人間が作ったルールに縛られて、不必要な重荷を背負わされていた。イエス・キリストはその重荷から人々を解放し、自由を与えてくださった。これが神の愛である。この愛を受け取り、このお方の教えに従って生きる者は、魂に安らぎを得ることができる。なぜなら、イエス・キリストの教えは、愛の律法であり、神がその人のうちに働いて愛を行わせてくださるからだ。

聖書には、イエス・キリストの教えが沢山書かれてあり、とても守ることは無理だと思うかもしれない。確かにそれを自分の力で行おうとすれば、出来ないどころか、むしろ、真逆のことをしてしまう衝動に駆られてしまう。しかし、神の力により頼むことで、神がそれを可能としてくださるのだ。

この世で生きていて悪魔の価値観に疲れ、へとへとになっている人は、是非イエス・キリストにその重荷を下ろし、自由と平安を受け取っていただきたい。神は、あなたが神のもとに立ち返り、神の愛のうちに安らぐことを心から待っておられる。猛暑が続く日々の中、霊肉ともに健康に生きることができますように。

  • 2023/03/01
  • イエス・キリスト

真のスーパーヒーロー

全人類を死と罪の束縛から解放する救世主!と聞くと、さぞかし ハリウッド映画に出てきそうなスーパーヒーローを思い描くかもしれない。事実、紀元1世紀のユダヤ人たちは、自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれる救い主(メシア)が、栄光の王として目の前に現れ、直ちに敵を滅ぼし、メシア的王国を樹立されると期待した。そして、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と語った時、ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ついにメシアがやってきたと喜び、ヨハネの元に来て、彼から洗礼を受けていた。しかし、そのメシアとして現れたイエスという人物は、皆が期待した「王らしい」姿ではなく、ごく平凡な「普通の」ユダヤ人だった。しかも、貧しい家庭で、大工の息子として生活していた人だった。そのイエスが、実は神の子であり、聖書で約1500年に渡ってその登場が預言されていたメシアであるとは信じられず、多くのユダヤ人がイエスにつまずいた。なぜ神は、ユダヤ人たちが期待するような姿でイエスを登場させなかったのだろうか。もし、イエスがスーパーヒーローとして輝かしく現れていたら、もっと多くのユダヤ人がイエスをメシアであると信じたのではないだろうか。実は、イエスが、ユダヤ人たちの慕うような見栄えではない姿を取られたのには、深い理由があるのだ。

神は、愛なるお方であり、罪人である私たち人間を救いたいと願っておられる。と同時に、神は、義であり聖なるお方であるため、罪人をそのまま受け入れることができない。それゆえ、人間を救うためには、まず罪を解決しなければならない。罪を解決するためには血を流す必要がある。なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。いのちを贖うためには、いのちの代価を支払わなければならない。これが、神の義である。しかし、罪人の血をいくら流しても、それは全人類の罪の贖いにはならない。これは、返済できないほど借金まみれになっている人が、自分の借金も返せないのに、他の人の借金を返せるはずがないのと同様である。罪のない完璧な人間の血を流すことによってのみ、全人類の罪を贖うことができる。しかし、私たち人間は全て、アダムが犯した罪の性質を遺伝的に継承しているため、その資格を持つものは一人としていない。

そこで、神ご自身が、聖霊の力によって、罪を持たない完璧な人間イエスとして、乙女マリアから超自然的に生まれてくださったのだ。イエスは、罪を一回も犯すことなく生涯を過ごし、罪のなだめの供え物として、ご自身のいのちを捧げてくださった。

この受難のしもべとしての役割を果たす上で、スーパーヒーローのような輝かしい姿は必要ない。むしろ、ごく平凡なユダヤ人の姿を取る必要があった。なぜなら、イエスがバプテスマのヨハネの洗礼を受けられた時、イエスは罪人と一体化してくださったからだ。イエスは、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられた。そして、自らを低くして、十字架の死にまで従われた。ここに、イエスの謙遜が現れている。この完璧な従順のゆえに、父なる神は、このお方を高く上げられて、すべての名にまさる名を与えられた。これが、メシアの初臨の御業である。初臨があれば、次に再臨がある。再臨のメシアは、栄光に輝く王の姿を取って来られる。つまり、紀元1世紀のユダヤ人たちが思い描いたメシア像は、実は再臨のメシアの姿だったのである。彼らは、栄光の前に苦難を通過しなければならないことを知らなかった。それゆえ、イエスの初臨の姿につまずいてしまったのである。

イザヤ書53章を見ると、受難のメシアの姿が生々しく描写されている。それはまさにイエスの姿そのものである。イエス・キリストは、イザヤ書53章の預言通りに、私たち全人類の罪を贖うために、身代わりとなって十字架にかかってくださったのだ。罪に対する神の怒りが全て、十字架上のイエスの身にぶちまけられたので、私たちは罪赦され、平安が与えられ、癒される土台が完成したのである。あとは、イエス・キリストを救い主であると信じる信仰によって、その祝福を受け取るだけである。私たちが信じるべき福音の内容は次の通りである。 「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」(コリント人への手紙 第一 15章3~4節) このことを信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことのできる救い主であると信頼した時に、私たちは罪赦され、永遠のいのちが与えられるのである。まだ、この救いを受け取っておられない方は、今この瞬間に受け取って頂きたい。そして、共に再臨のメシアが、栄光に輝くスーパーヒーローとして来られるのを待ち望もうではないか。

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