2024年エシュコル掲載メッセージ



  • 2024/05/01
  • 聖霊 / 教会

ワンチーム

「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉は世間で広く知られているが、文献の中で最初に登場したのは1844年、フランスの作家アレクサンドル・デュマ・ペールの『三銃士』だそうだ。これが早稲田大学ラグビー部のモットーとして取り入れられ、それが今や日本のラグビー協会全体のキャッチフレーズとなったと言われている。ラグビーと言えば、2019年のワールドカップで日本が初のベスト8に入り、「ワンチーム」というスローガンが流行語大賞になったことは記憶に新しい。このワンチームという概念は、キリストの教会そのものを表している。

聖書では、「みからだの教理」という教えがあり、教会がからだにたとえられている。つまり、イエス・キリストが頭であり、イエス・キリストを信じる信者一人ひとりが各器官として構成されているからだが教会なのである。人間の体は、一つの体の中に多くの器官があって、各器官がそれぞれ異なった働きをしている。そして、例えば胃が痛くなれば、体全体が苦しくなり、体全体の調和が取れている時に初めて元気に生きることができる。このように、人間の体には、一体性、多様性、調和という要素がある。これと同じように、教会にもこの3要素が備わっているのだ。教会を構成する一人ひとりの信者は、キリストのからだの一部であるという点において一体性があり、それぞれ異なった個性、能力、賜物を持っている点において多様性があり、お互いに支え合っている点において調和がある。

ところで、イエス・キリストを信じる信者は、教会の一部となっているが、それを可能とする働きをなさるのが、聖霊(=御霊)なる神である。ある人がイエス・キリストの福音を信じた瞬間、聖霊はその人をキリストと一体化させ、教会の一部に組み込む働きをされる。これを「聖霊のバプテスマ」という。バプテスマとは「一体化」を意味し、これは布を染料で染めるイメージである。聖霊はお一人なので、全ての信者は、同じ聖霊によってバプテスマを受けて、キリストを頭とする一つのからだとなる。

そして、聖霊ご自身が信者一人ひとりの内側に住んでくださるのだ。これを「聖霊の内住」という。このことを教えているのが、次の聖句である。

コリント人への手紙 第一 12章13節 "私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。"

私たちは、人種も、身分も関係なく、誰でも、イエス・キリストを信じる信仰により、神の恵みによって、罪と死の束縛から解放され、聖霊のバプテスマおよび聖霊の内住が与えらえる。これがいつから始まったかというと、今から約2000年前、紀元30年にイエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られてから50日目のことである。その日は、ユダヤ人の祭りである七週の祭りの日であり、それをギリシア語で「ペンテコステ」という。

この日、聖霊なる神が地上に降臨し、教会が誕生したのだ。それ以来、教会はワンチームとして存在し、「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」(1コリ12:26)ように召されている。教会の存在目的の最も大切なことは、神の栄光が現れることである。そして、その目的は、キリストのからだに属する一人ひとりがお互いに愛し合うことで達成されるのだ。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちもお互いを愛しあうことができるよう、聖霊の力により頼んでいこう。

  • 2024/04/01
  • 復活

ふっかつは、ほんまにあるで

「死ぬのが怖い、死んでも蘇れたらどれだけ良いだろうか。愛するあの人が蘇って欲しい。」これらは、誰しも一度は願ったことがあると思う。しかし、一度死んだ人が蘇ることは決してない、という現実を前にして、その願いはそっと胸の奥にしまい込んでいる、というのが多くの人の本音であろう。筆者も漏れなくそうであった、聖書を知るまでは。死んだ人が蘇るというのは、漫画やゲームの中の出来事に過ぎないと堅く信じていた、聖書を知るまでは。聖書を知った今、はっきりとこう宣言する。

ふっかつは、ほんまにあるで。


この主張に対する論理展開は実にシンプルである。
①聖書は、創造主なる神が書かれた誤りなきことばである。
②聖書は、復活が本当にあると教えている。
③よって、復活は本当にある。

神は真実なお方であるので、神が約束されたことは全て成就する。そのことは歴史が証明してきた。聖書はその3分の1が預言であると言われており、過去に関する預言は全て一つ残らず成就してきた。そのことは何千年もの間、歴史家たちが必死になって検証してきた結果明らかにされていることである。過去の預言が全て成就したのであれば、私たちにとって将来の預言も全て成就すると信じるのが、合理的な結論だ。

聖書は、将来、イエス・キリストが信者たちを天に迎えに来る時、キリストを信じて死んだ信者たちは栄光の体に蘇り、キリストを信じて生きている信者たちは生きたまま栄光の体に変えられて、天に引き上げられると教えている。これを、携挙という。携挙の時、復活は、本当に起こるのである。実は、過去、エノクという人物と、エリヤという預言者が、携挙されている。彼らは生きたまま天に上げられたと、聖書に記録されている。

また、聖書を見ると、イエス・キリストは、何人もの人を蘇らせている。これは、蘇生であって、復活とは違う。蘇生の場合は、再び時が来たら死ぬが、復活は、もう死ぬことはない。

キリストが蘇生させた人物で一番有名なのが、ラザロという人物である。ラザロは、ベタニヤという村に住むマルタ、マリアという姉妹の兄弟である。このラザロが死にそうである、という知らせがイエスの元に入った。しかし、イエスはすぐにラザロの元に駆けつけることはされなかった。むしろ、ラザロが死んで4日経つまで待たれた。それはなぜか?イエスが、死んだラザロを蘇らせ、神の栄光が現れることが父なる神の御心だったからである。イエスは、死後4日経った者であっても蘇らせることができるお方であることを人々が知り、イエスがメシア(救い主)であることを信じるようになるために、イエスは待たれたのだ。

イエスがラザロの墓に来られた時、マルタが出迎えに来た。その時に、イエスはラザロが蘇ると仰ったが、マルタは、それは将来に起こる終末的な蘇りのことだと思っており、今、目の前で蘇るとは思っていなかった。そこでイエスが仰ったことばが次の通りである。

ヨハネの福音書 11章25節 "イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。"

「わたしはよみがえりです。いのちです。」というのは、イエスの神性宣言である。つまり、イエスはご自身が神であるとここで宣言されたのだ。その神であるイエスを信じる者は、死んでも生きるのだ。これは、一度肉体的に死んでも、霊的には永遠に生きており、その霊的いのちがやがて栄光の体に結びつき、肉体的にも永遠に生きるようになるということだ。これが復活である。

目の前で死んだ人間を蘇らせたお方が、また、ご自身が死んで蘇られたお方が、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と約束してくださっているのだ。これ以上、信じるに足る根拠はない。それゆえ、私は宣言する。ふっかつは、ほんまにあるで。是非、イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られたことを信じ、このお方によって罪の赦しと永遠の命が与えられること、復活が与えられることを信じて頂きたい。

  • 2024/03/01
  • 神の愛

神は愛である

『神は愛である。』この言葉は、教会に足を運んだことがある方なら、誰しも聞いたことがある言葉だと思う。では、具体的に、神が愛であるとはどういう意味であるか、神の愛とは一体何なのだろうか。まず「愛」という言葉の一般的な定義について確認したい。広辞苑によると、愛とは、①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。②男女間の、相手を慕う情。恋。③かわいがること。大切にすること。④このむこと。めでること。などと定義されている。さらに見ると、⑦キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。とキリスト教における定義も記されている。この定義を見ても、なんとなく分かったような気がするが、結局はよく分からないというのが正直な感想ではないだろうか。では、これから聖書が教える神の愛について解説していきたい。

ヨハネの手紙 第一 4章10節
"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"

この聖句に、神の愛が何であるかが書かれている。神は、私たちが神を愛したから私たちを愛してくださったのではない。私たちが神に敵対し、神に背を向け、神から離れて生きている時から、神は私たちを愛してくださっているのだ。その愛は、「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました」という言葉で表現されている。これが何を意味しているかを理解することで、神の愛が何であるかを理解することができる。

まず「私たちの罪」とは何だろうか。聖書では、「罪」とは、「的外れ」を意味している。その的とは、神のことばであり、さらに言うと、神ご自身である。つまり、罪とは、神のことばを信頼せず、神から離れて生きることである。

その結果、神の属性に反すること、つまり、淫らな行い、偶像礼拝、盗み、貪欲、憤りなどの状態に陥るのである。人間はいつから罪を犯すようになったのだろうか。その答えは、神が最初に造られた人間、アダムにある。アダムが、神の命令に反して、善悪の知識の木から取って食べたことによって、神に背を向け、神から離れてしまった。これを霊的死と言う。神はアダムに、命令に違反したら必ず死ぬと言われていたが、アダムは命令に違反した時、まず霊的に死んだ。その後、時間をおいて肉体的に死んだ。神が最初に造られた世界には死は存在しなかったが、アダムが罪を犯したためにこの世界は呪われ、それ以降、生きとし生けるものは全て死ぬようになった。

アダムの子孫である私たち全人類は、生まれながらに、霊的に死んだ状態になっている。そして、霊的に死んだ状態のまま、肉体的に死んでしまった者に待つ運命は、火と硫黄の燃える池(地獄)での永遠の滅びである。なぜこのような運命が待っているのか。それは、神が完全に聖なるお方であり、罪を持ったままの人間を受け入れることができないからだ。神に受け入れられるためには、罪の問題を解決しなければならない。しかし、生まれながらに罪人である私たち人間は、自分の力で罪を解決することはできない。では、人間は滅びるしかないのだろうか。否、ここで神の愛が私たちに差し伸べられている。

神は、義なるお方である。罪を赦すためには、それに相応しい犠牲が必要である。では、人間の罪を赦すためには、どのような犠牲が必要だろうか。それは、神の御子の命である。神ご自身が、全く罪の持たない人間、神の御子として生まれ、神の義の基準を全て満たし、全人類の身代わりとなって、罪の裁きを受けることによって、人間の罪が赦される土台が出来るのだ。罪に対する神の怒りが、全て神の御子に注がれたからこそ、神の怒りが宥められたのだ。この「宥めのささげ物」となってくださった神の御子こそ、イエス・キリストである。

「イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られた。」

この福音(グッドニュース)を信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことが出来る救い主であると信頼した時、私たちの過去、現在、未来の罪は全て赦され、永遠の命が与えられる。これが、神の義である。

キリストを信じる者は、神との関係が回復し、霊的に新しく生きるようになる。それゆえ、将来、肉体的に死んでも、イエス・キリストが復活したように、必ず栄光のからだを持って復活することができる。

神は、愛する人間を永遠の滅びから救うために、御子イエスが十字架で死ぬことを良しとされたのである。ここに神の愛が凝縮されている。この愛は、全ての人に等しく差し出されている。まだこの愛を受け取っていない方は、今すぐに受け取って頂きたい。神はその時を今か今かと待っておられるのだ。

  • 2024/02/01
  • 霊的備え / 携挙

霊的備えのすすめ

2024年は、元旦から能登半島における大地震からスタートした。筆者は、遅ればせながら、防災意識が高まり、家具の固定や備蓄品の確保など、危機的状況に対する備えをし始めた。その備えをしながら、もっと大切な備えについて思いを馳せている。それは、「霊的備え」である。私たちにとって、最大の悲劇は死である。その死を避けるために防災をするのであるが、さらに、死んだ後の備えこそが、「霊的備え」なのだ。私たち人間は、神の前に一人残らず罪人であり、死後の裁きにおいて有罪を免れ得ない存在である。死後の裁きで有罪となった者には、火と硫黄の燃える池(地獄)での永遠の滅びが待っている。神は、私たち人間を愛しておられ、一人として地獄に行って欲しくないと願っておられる。それゆえ、神ご自身がイエスという人となられ、私たち全ての人間の罪を贖うために、十字架で死んでくださった。そして、イエスは墓に葬られ、三日目に蘇られた。このイエス・キリストは今も生きて私たちを罪と死から救ってくださるお方であると信頼した者は、全ての罪が赦され、永遠の命が与えられる。そして、死後の裁きで無罪とされ、御国で永遠に安らぐことができる。このグッドニュースを信じ、イエス・キリストにある救いを受け取ることこそ、霊的備え、究極の防災である。

イエス・キリストを救い主として信じた者、すなわち、クリスチャンは、霊的備えができているのだが、霊的備えにも段階がある。それは、義認、聖化、栄化という段階である。私たちはクリスチャンになった瞬間に、義認された。つまり、神に義と認められたのだ。これは一度限り起こることであり、一度義認された者は、その状態を失うことは決してない。その後、聖化という段階に入る。これは、霊的状態が徐々に清められ、キリストに似た人格へと変えられていくプロセスである。私たちは義認されても、直ちに「聖人君子」になるわけではない。依然として、生まれながらに持っている罪の性質のため、日々罪と格闘しながら生きている。

しかし、聖霊の力によって、徐々に罪から解放されていき、罪を犯す頻度が減ってくる。そして、聖化が完成する日が来る。それが、「キリストの日」、つまり、キリストが再臨する時である。より詳細に言うと、キリストが空中までクリスチャンを迎えに来られた時、クリスチャンは栄光の体に変えられて(栄化され)、天に引き上げられるのだ。これを「携挙」と言う。

クリスチャンは、キリストの日に、キリストの前に立つのだ。そのために、今から備える必要がある。その備えとは、日々キリストの教えに従って生きることである。そのためには、キリストが私たちに何を教え、どのように生きるべきであるかを聖書から学ばなければならない。そして、学んだことを生活の中で実践して、自分のものとしていかなければならない。この営みは、自分の頑張りによって成し遂げられるものではない。聖霊の助けが必要である。私たちの助け主である聖霊に心を明け渡すことによって、聖霊が私たちの心を支配してくださり、キリストの教えを守ることができるように、私たちを造り変えてくださるのだ。こうして、私たちは、知識と識別力を身につけ、大切なことを見分けることができるようになる。そして、キリストの日が来るまでに、純真で非難されるところがない者となり、豊かな義の実をつけるようになる。これは全て神の力によることである。それゆえ、その時、神の栄光と誉れが現されるのである。これが私たちの上に成就するように、パウロは次のように祈っている。

ピリピ人への手紙 1章9~11節
"私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。"

このパウロの祈りが私たちの上になりますようにと祈りつつ、日々、霊的備えをしていこうではないか。キリストの日は、もうそこまで来ている。

  • 2024/01/01
  • 神に喜ばれる生き方 / 携挙

終わりの時代の中の、終わりの時代

ハレルヤ!新年明けましておめでとうございます。
2024年も、神の誤りなきことばである聖書を正しく学び、神の御心に沿った日々を送って参りましょう。年の始めに、私たちが守るべき大切な教えを確認したい。

ローマ人への手紙 12章1~2節
"ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。"

私たちは、生まれながらに御怒りを受けるべき器であるにも関わらず、神の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によって、罪赦され、永遠のいのちが与えられた。この恵みを受け取った者として出すべき合理的結論は、全的献身である。全的献身とは、自発的に、喜んで、自分の全存在をかけて、神の御心を行う器として生きることである。その生き方をするにあたって、悪魔が支配するこの世の価値観に染まってはいけない。ポストモダンの時代である現代は、自分が真理だと思うものが真理とされてしまう。多様性という名のもとに、何でもありの時代に私たちは生きている。その中にあって、私たちは、神の国の市民として、神の価値観に堅く立って生きていかなければならない。そのために必要なことは、神の御言葉である聖書を正しく学び、神に関する知識を更新していくことである。そして、学んだことを自分の生活に適用することである。そうすることで、津波のように襲ってくるこの世の価値観から身を守り、神に喜ばれる生き方を送ることができるようになる。

2024年は、終わりの時代の中の終わりの時代である。永遠に続くかのように思われている日常が間も無く終わろうとしている。コロナ禍に入ってから、世界が一気に同じ方向に舵を切った。緊急事態という名目のもと、強力なリーダーシップ、全体主義の世の中になり、国民は自由を制限されるようになった。このままこの世は、世界統一政府に向けて突き進むだろう。また、デジタル通貨、タトゥー型ワクチン、ワクチンパスポート、AI技術による顔認識システム、 第三神殿建設計画などなど、技術的に、状況的に、大患難時代にいつ突入してもおかしくない時代になっている。ということは、大患難時代の前に起こると約束されている携挙が、より目の前に迫っていることを意識せざるを得ない。

携挙は、紀元70年以降、いつ起こってもおかしくないものである。今日かもしれない、明日かもしれないという状態が約2000年続いたわけだが、上記の通り、大患難時代が待ったなしの状態になった今、ますますその切迫度が高まっている。そのような時代に私たちはいかに生きるべきか。私たちは、緊急性と平常心を保ちながら、日々、キリストの福音を宣べ伝えることを最優先にするべきである。最近特に、こちらが予想していないタイミングで伝道の機会が与えられたり、人が救われたりすることが格段に増えてきたように思う。携挙は、異邦人の救われる数が満ちた時に起こるが、まさに神がそのラストスパートをされているように感じている。 2024年は、今まで以上に伝道に力を入れて行きたい。そのために、いつその機会が訪れても良いように、日々御言葉を学び、霊的準備を万全にしようではないか。

単 立 広 島 平 和 教 会

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