メッセージテーマ「受肉」



  • 2021/12/01
  • 受肉

なぜ神は人となられたのか?受肉の神秘に迫る!

クリスマスは、神の御子イエス・キリストの御降誕を記念するお祝いとして、広く世界に知れ渡っています。しかし、なぜ神が人となられたのか、その真意を理解している人は、意外と少ないのではないでしょうか。今回は、神が人となられた「受肉」という神秘について、その真相に迫ってみようと思います。

受肉とは

「受肉」という用語そのものは聖書にありませんが、その概念はあります。ローマ人への手紙8章3節に「神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」とあります。神の御子イエスは、私たち人間と同じように肉体を持たれました。しかし、その肉体は罪に汚れているものではありませんでした。何故なら、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(ルカ1:35)とあるとおり、神の力が働いたからです。よって、イエス・キリストは、100%神であると同時に、100%罪のない人間として生まれてこられたのです。

イエス・キリストは、神であられるのですが、神としての特権を捨てて、人間としての弱さを持ちながら生涯を過ごされました。つまり、神としての力を、人間的必要のために用いることはなかったということです。例えば、イエス・キリストは、石をパンにすることができましたが、いくらお腹が空いても、自分の空腹を満たすためにその力を使うことはありませんでした。

他方、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、どんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハ6:35)とあるように、イエス・キリストは、神としてのご性質を表し、人々を救いへと導かれました。このように、イエスの公生涯で、人間性と神性の二つが偉大な対比として出ています。

受肉の預言

救い主(ヘブル語の「メシア」、ギリシア語の「キリスト」)は、神であり、同時に人として生まれることが旧約聖書で預言されていました。イザヤ書9章6節に『ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』と書かれています。「ひとりのみどりご」、「ひとりの男の子」とあるように、メシアは人間として誕生することが分かります。また、その名が「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれることから、メシアは神であることが分かります。 また、メシアは、「それゆえ、主自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザ7:14)とあるとおり、処女から生まれることが預言されています。なお、「インマヌエル」とは、人間となられた神が私たちと共におられるという意味です。

受肉の成就

イザヤ書で預言されていたとおり、メシアが乙女マリアから誕生したのです。その詳細な記録が書かれているのが、ルカの福音書です。天使ガブリエルによって、受胎告知を受けたマリアは、処女であったのに、聖霊によってイエスを身ごもりました。マリア自身は罪ある女でありましたが、その罪は聖霊によって断ち切られたため、イエスは罪の性質を持たない完璧な人間性をもって誕生したのです。このことは非常に奇跡的なことでしたが、それ以降の出産の過程は、通常の女性が経験するものと同じでした。このように、イエス・キリストは、その誕生の時から神としての特権を捨てて、人間としての弱さを持って、この世に来られたのです。

受肉の目的

ここから、なぜ神が人となられたのか、つまり、受肉の目的についてご説明致します。

神を人間に啓示するため
神は霊であり肉体を持っておられませんので、人間は神を見たり触れたりすることはできません。しかし、受肉によって、人間が五感によって理解できる範囲に神が入って来られたのです。「わたしを見た人は、父を見たのです。」(ヨハ14:9)とあるとおり、イエス・キリストを見た人は、神を見たこととイコールなのです。私たちは、イエス・キリストを通して、神がどのようなお方であるかを知ることができるようになったのです。

真の人間性を啓示するため
イエス・キリストの受肉によって、罪のない人間がどのような人間であるかを示されました。罪に汚されていない真の人間性が示された時、自らの罪が示されるため、罪人はイエスから目を背けたくなります。しかし、信者にとっては、イエスは生きた手本であり、模範となりました。

罪の贖いを提供するため
人間が罪を犯した場合、血による贖いによって、神は人間との関係を回復してくださることを約束してくださいました。「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。」(レビ17:11)とあるとおりです。ここで、神は死なないので、贖いを提供できません。また、普通の人間はすべて罪人ですから、死んだとしても永遠の贖いを提供できません。このジレンマを解決するのが、神が人となる受肉なのです。100%神であり100%人間であるイエス・キリストの十字架の死によって、永遠の贖いが提供されたのです。

ダビデ契約を成就するため
メシアは、ダビデの子孫として生まれ、永遠にイスラエルを統治することが、ダビデ契約という神がダビデと結んだ契約によって約束されています。このダビデ契約を成就するためには、メシアはダビデの子孫である人間でなければならず、また永遠に生きる神でなければならないのです。このジレンマも、受肉によって解決されました。

悪魔の業を打ち壊すために
この地上の支配権は最初アダムに与えられましたが、アダムが罪を犯して以降は、サタンがこの地上の支配者となりました。しかし、「その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました」(1ヨハ3:8)とあるとおり、メシアが受肉され、悪魔の支配する領域にメシアが侵入されたことで、悪魔の業が打ち壊されたのです。

思いやりのある大祭司となるため
イエス・キリストは、受肉されて人間性を持たれたので、私たちと同じように疲れ、飢え、渇き、悲しみ、また誘惑にあわれました。それゆえ、イエス・キリストは、私たちの弱さに同情してくださるお方であり、今、思いやりのある大祭司として父なる神の右に座して、私たちのために執りなしてくださっているのです。

究極的な愛のかたち

神は永遠の昔から、私たち人間が罪を犯すことをご存知であり、その解決として御子を受肉させ、十字架の御業をなされることを計画してくださっていました。神ご自身が、言葉にならないほどの苦しみを通過することを分かった上で私たちを創造してくださったことを知った時、それほどまでに神は私たちのことを愛してくださっているのだと、本当に感謝の気持ちで一杯になりました。そして、この受肉という状態は、メシアの公生涯が終わってからも、永遠に続くのです。つまり、イエス・キリストは、その在り方として人間性を永遠に持ち続けてくださるということです。それほどまでに、神は私たち人間のことを愛してくださっているのです。このように、「受肉」とは、神の人間への究極的な愛のかたちなのです。この愛なる神に、栄光がとこしえまでもありますように。アーメン。

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