メッセージテーマ「十字架」



  • 2023/02/01
  • 十字架

十字架に込められた神の愛

2月といえばバレンタインデー。巷では、女性たちが男性に向けてチョコレートに愛を込めている。それに対し、神は、1年365日、毎日私たち人間に向けて聖書に愛を込めている。私たちはいつでも聖書を開けば、神の愛を受け取ることができるのだ。この聖書は、旧約聖書39巻と新約聖書27巻から成っており、どちらもイエス・キリストがメインテーマとなっている。イエス・キリストこそ、神の愛の具現化である。このイエス・キリストがどのようなお方として来られるのか、ということが旧約聖書の中に散りばめられている。つまり、本体であるイエス・キリストの「型」となる人物、モノ、出来事が旧約聖書には数多く出てきており、それらを通して、イエス・キリストがどのようなお方であるかを理解することができるのである。その型の一つが、「青銅の蛇」である。

旧約聖書の一つ民数記の21章にこのような話がある。イスラエルの民が荒野を放浪していた時に、彼らは「このみじめな食物に飽き飽きした」と不満を口にした。「みじめな食物」とは直訳すると「軽いパン」であるが、これは神が彼らのために天から降らせた「マナ」という食べ物のことである。彼らはマナが毎日与えられたことによって40年間にも及ぶ荒野生活を生き延びることができたのに、そのマナを侮辱するようになった。これは神への冒涜に等しい。その裁きとして、神はイスラエルの宿営に無数の毒蛇を送られた。毒蛇に噛まれた多くの者が死んだ。民は自らの罪を告白し、モーセに執りなしの祈りを要請した。モーセが祈ると、神はモーセに青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけるよう命じた。毒蛇に噛まれた者は、それを仰ぎ見れば死を免れるというのである。モーセはその通りに青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。そして、それを仰ぎ見た者は全て生き延びたのである。

この青銅の蛇は、イエス・キリストの型となっている。青銅の蛇は、毒蛇と同じような形をしていたが、それそのものには毒はなかった。それと同じように、イエスも罪人と同じような形で十字架に付けられたが、イエス自身には罪はなかった。青銅の蛇は、誰の目にもつくところに掲げられたが、それを仰ぎ見たものだけが肉体の死を免れた。それと同じように、イエスの十字架も、誰の目にもつくところに立てられたが、信仰をもってそれを仰ぎ見た者だけがその罪を赦された。この青銅の蛇の出来事を通して、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという真理を私たちに教えているのだ。ちなみに、イエス自身が、青銅の蛇の出来事を引用して、十字架の死の意味を解説している。それがヨハネの福音書3章にあるニコデモとイエスの対話である。

ニコデモは、ユダヤ議会の議員で神学校の校長であり、ユダヤ人の指導者として非常に尊敬されている人物である。そのニコデモがイエスのもとに来て、イエスが本物のメシア(救い主)であるかどうか確かめようとした。その会話の中で、イエスは次のように仰った。
"モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」"(ヨハネの福音書 3章14~15節)

ここで「人の子」とはメシアの称号であり、イエスご自身のことである。モーセが荒野で青銅の蛇を旗ざおの上に掲げて、それを信仰によって仰ぎ見た人が救われたように、メシアであるイエスご自身が十字架に上げられることによって、イエスを信仰によって仰ぎ見る人が救われることを、イエスはニコデモに教えようとした。

イエスの十字架こそ、神の愛の究極の形である。神であるお方がイエスという人となられ、全人類の罪を贖うために、犠牲の生贄(いけにえ)としてご自身を捧げ、十字架の上で罪の罰を身代わりに受けて死んでくださったのだ。イエスは、「わたしがあなたの代わりに死ぬから、あなたは生きなさい」という至高の愛を私たちに与えてくださっている。これ以上の愛はこの世には存在しない。さらにイエスは、死んで墓に葬られた後、三日目によみがえられたのだ。この復活により、イエスの死が、全人類の罪を贖うものとして有効であったことが明らかにされた。そして、イエスは天に昇り、今も生きて大祭司として私たちのために執りなしをしてくださっている。このようなお方としてイエスを信頼する者は、罪の赦しと永遠のいのちを自分のものとすることができる。この福音こそ、神からあなたへのラブレターである。十字架に上げられたイエス・キリストの愛をいつも見上げ、今を生きる力を頂こうではないか。

単 立 広 島 平 和 教 会

〒734-0021広島県広島市南区上東雲町9-10
Copyright © 2021 広島平和教会 All rights reserved.