- 2025/04/01
キリストの復活は真実か、たわごとか
キリスト教の肝心要の土台というのは、イエス・キリストは復活した、という歴史的事実である。この復活が真実か否かで、キリスト教は立つも倒れるも決まる。もしキリストの復活がたわごとであったら、12使徒をはじめ、殉教死も厭わずにキリストを宣べ伝えた世界中のクリスチャンたちは、犬死にしたことになる。また、毎週教会に通って礼拝したり、伝道したりしていることも、茶番である。
他の宗教と違い、キリスト教というのは、既に死んでいる教祖を拝んでいるのではなく、死を打ち破り、今も生きている唯一の創造主なる神を礼拝している。その神は、私たちを死と罪の束縛から解放し、私たちに朽ちないからだと永遠のいのちを与えてくださるお方である。この希望、約束が100%確実なものとして与えられているから、私たちはこの神を信じ、礼拝することができる。なぜそのように信じられるか、それはキリストの復活が真実だからである。では、なぜキリストの復活が真実であると言えるか、それは、新約聖書の復活に関する記事を読めば分かる。そこは真実の香りで満ちており、また、その後の弟子たちの激変ぶりを見れば、それは彼らがキリストの復活を目撃したから、という以外に説明のしようがない。
キリストの復活に関する記事は、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書と、4種類の福音書に、それぞれ異なる記者たちの視点から書かれている。それらを比較すると一見食い違っているように見える記述が見られるが、決して矛盾していない。それは、同じ出来事をそれぞれの視点から見て書いているので、当然生じ得る違いだ。
むしろ、全員が全く同じことを言っている方が不自然であり、口裏を合わせている可能性が高い。それぞれの記者が、それぞれが実際に見聞きした情報を書いているが故に、多少の違いがあるが、それらは全て事実であるが故に、矛盾することはないのだ。これが、真実の香りの正体である。是非、裁判官になったつもりで、復活の記事を読んでいただきたい。必ずや、この真実の香りを感じていただけるはずだ。
また、キリストの復活前後の弟子たちの変化っぷりも、キリストの復活の真実性を証明している。イエス・キリストが逮捕される時、弟子たちはイエスを見捨てて、蜘蛛の子を散らすように逃げた。その後、イエス・キリストが十字架にかけられた時、12弟子のうちその場に立ち会ったのはヨハネだけで、残りの弟子たちは隠れていた。なお、一番弟子であるペテロは、お前もイエスの仲間だろ、と責め寄られた時に、イエスのことを知らないと3度も否んだ挙句、3度目の時はそれが嘘なら呪われてもよいと言うほどだった。
そんな臆病だった弟子たちの元に、イエスを慕う婦人たちから一つの知らせが入った。それは、なんと、彼女たちがイエスの葬られた墓を見に行ったら、イエスの体がなく、天使が現れて、イエスは復活したことを知らされた、というものだった。それを聞いた弟子たちは最初、それを「たわごと」のように思った。しかし、実際に墓に行ってみると、確かにイエスの体がなかった。そして、数日後、復活したイエスが、弟子たちが集まっていた家の真ん中に突然現れたのだ。こうして、イエスは確かに十字架に掛かって死に、墓に葬られた後、よみがえられたことが弟子たちの目に明らかになった。
その後、復活したイエスは、40日間に渡って弟子たちに現れ、神の国について教えられた後、雲に包まれて天に昇って行かれた。それから弟子たちは、勇敢になり、ユダヤ議会に逮捕されることも厭わずに、また、殉教の死を恐れずに、復活したイエス・キリストを宣べ伝え続けたのである。
このように、イエスの愛弟子たちでさえ、最初は「たわごと」のように思えたイエス・キリストの復活だが、実際に死んでよみがえったイエスに出会ったことで、信じざるを得なくなった。その弟子たちの目撃証言が、4つの福音書に書かれているのだ。私たちは、この生々しい記録を見て、どのように応答するかが問われている。一つは、否定する道。もう一つは、受け入れる道。これら二つに一つしかない。中間はあり得ないのだ。
聖書は、キリストを信じるか信じないかで、永遠の運命が決まると教えている。イエス・キリストがあなたの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目によみがえったと信じる者は、すべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられる。信じない者は、死後の裁きで有罪とされ、火と硫黄の燃える池で永遠に苦しみ続ける。これが全ての人間に等しく適用される霊的真理である。これは信じるか信じないかに関係なく、私たちの現実問題として突きつけられるのだ。世の中の多くの方が、この真理を知らないまま、死後の裁きの座に立つことになる。
今、このメッセージを読んでいるあなたは、神の摂理の中で導かれてこのメッセージを読んでいる。なぜなら、あなたは神に愛され、神があなたをご自身の元に連れ戻したいと強く願っておられるからだ。今、その神の招きに応答し、イエス・キリストを信じるという選びをしようではないか。