2022年エシュコル掲載メッセージ



  • 2022/12/01
  • 希望

患難の中で与えられた希望

「メシア(救い主)が誕生する地は、ベツレヘムである」という預言はあまりにも有名であるが、その預言がどのような文脈の中で与えられたかは、あまり知られていないように思う。この預言をしたミカという預言者が、どのような文脈の中で、メシア誕生の預言をしたのかを確認していきたい。 ミカという人物は、紀元前8世紀に生きた預言者であり、預言者イザヤと同世代である。彼の出身地は、モレシェテ・ガテというエルサレムから南西30kmほどの距離にある田舎町である。
ミカが活動した時代は、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代であり、アッシリアからの攻撃を受けようとしている中で、彼は神のことばを民に伝えていた。彼は、裁きの預言とそれに続く回復の預言を語ることで、患難の中にある少数の真の信仰者「イスラエルの残れる者」を励ましたのである。



迫り来る裁き


まず、ミカは、迫り来る裁きについて預言した。当時、イスラエルの民は偶像礼拝の罪に陥っており、その罪のゆえに、北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、アッシリア捕囚に引かれて行こうとしていた。アッシリアは北王国イスラエルを征服した後、南王国ユダにまで迫ってくるのだ。ミカは、ユダの地が荒れ果てることを思い、嘆き悲しんだ。このユダの地が荒廃するという預言は、アッシリアではなく、バビロンの侵略によって成就する。 南王国ユダは、偶像礼拝だけでなく、貪欲の罪を犯していた。特に、裕福な上流階級の人たちが弱者を搾取していた。彼らは貧しい人たちから土地を奪っていたが、今度はそれが敵に奪われることになる。また、ユダの人々は、神の義や聖を語る主の預言者を非難していた。この罪に対する裁きが、捕囚である。 ユダは、その罪のゆえに裁きにあうが、神は彼らを見捨ててはおられない。神は、真の信仰者であるイスラエルの残れる者を必ず集めてくださる、という回復の預言を与えてくださった。この預言は、将来、大患難時代の最後に成就する。大患難時代において、イスラエル人の全人口の3分の2が死に絶えるが、3分の1が生き残ることが預言者ゼカリヤによって預言されている。その3分の1が、ボツラという地に集められ、神によって養われるのである。そして、ボツラに逃れたイスラエル人を滅ぼそうと大軍が攻め上ってきた時、イスラエル人が民族的回心を経験し、メシアが再臨されるのである。そして、メシアが彼らの先頭に立って、敵の包囲を撃破し、彼らを自由にされるのである。



裁きの後に来る祝福


次に、ミカは、イスラエルの指導者たちを容赦なく糾弾する。指導者たちは、民を守り、彼らに祝福をもたらす責務を負っていたにもかかわらず、逆に、民を搾取し、苦しめていた。この指導者たちは、厚かましくも神の助けを求めて祈っていたが、神は彼らの祈りに答えることはなかった。また、偽預言者たちが、私腹を肥やすために自らの賜物を用い、彼らを惑わせ、偽りの道へと導いていた。このような偽預言者たちに対し、神は答えを与えなかった。それにより彼らは恥を見ることになった。これら指導者層の罪のゆえに、エルサレムは滅ぼされることになった。 しかし、神は将来、エルサレムを高揚させると約束された。この預言は、メシア的王国の到来を告げたものである。エルサレムは世界中の注目の的になり、異邦人諸国がエルサレムに上ってきて、メシアから直接教えを聞き、その道を歩むようになるのである。メシア的王国では、メシアご自身が国際紛争を裁き、公平な判決を下すので、世界的平和が訪れるのである。 このメシア的王国は、「産みの苦しみ」を経た後に成就する。この産みの苦しみとは、大患難時代のことである。大患難時代において、バビロンが世界の中心地となり、イスラエルの民はバビロンに連行される。そして、異邦人の軍隊がメギドの平原に集合し、そこからエルサレムに攻め上るのである。これが有名な「ハルマゲドンの戦い」である。イスラエルの民は、大いに健闘するが、少数であるため最後は敗北する。ここまで預言した後、ミカはメシアの出現を預言するのである。それがミカ書5章2節である。 "「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」"(ミカ書 5章2節) イスラエルの民を患難から救い出し、地に平和をもたらすのがメシアである。メシアは、ユダ部族の領地にあるベツレヘムで、人間として誕生する。このことは「昔」から定められていることであるが、この「昔」(ヘブル語の『ケデム』)という言葉は、神に関して用いられている言葉である。つまり、メシアは、神であるということである。よって、神であるお方が人としてベツレヘムという場所で生まれるということが、この箇所からわかるのである。 メシアは今から約2,000年前に来られ、全人類の罪を贖うために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られた。そして、天に昇られ、今は父なる神の右の座についておられる。そのメシアが大患難時代の最後に再び地上に来られ、イスラエルの民は一つに集められる。そして、メシアが統治するメシア的王国が実現するのである。この預言が、メシアであるイエス・キリストがベツレヘムで誕生される700年も前に預言されていたのである。ミカによるメシア誕生の預言によって、紀元前8世紀の信仰者たちは患難の中にあって大いに励まされ、希望を頂いた。そして、今を生きる私たちにとって、この預言は、イエス・キリストがメシアであることを証明するものとなった。まもなく、このお方が再びこの世に来ようとしている。その時、私たちの救いが完成するのである。この希望を見上げ、患難に満ちたこの世にあって今を生きる力を頂こうではないか。

  • 2022/11/01
  • 創造論

本当のような嘘の話と嘘のような本当の話

「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1章1節) 聖書は、その膨大な記述の一番最初に、神が天と地を創造されたと宣言している。つまり、天地万物の創造主である神がおられる、というのが聖書の主張であり、その前提の下に聖書は書かれている。しかし、日本に生きる私たちが学校で学ぶ進化論は、創造主なる神がいない前提で論じられているため、この主張と真っ向から対立する。この世界は、創造主がいるのか、いないのか、二つに一つである。私たちはこの究極的な問いに対して、どちらかの答えを選ばなければならない。なぜなら、その答えが私たちの永遠の運命を左右するからである。

聖書は、その原典において、創造主なる神が人間に語られたことばが誤りなく記されていると言われている。その聖書には、人は死後、神の裁きを受け、有罪となった者は、火と硫黄の燃える池で永遠に苦しむことになると書かれている。そして、全ての人は罪人であり、永遠に滅ぶほかない存在であると書かれているのだ。しかし、イエス・キリストを救い主であると信じる者は罪赦され、神の裁きで無罪となり、永遠のいのちが与えられるのだ。これが本当のことだとしたらどうだろうか。誰が永遠の滅びを選ぶだろうか。当然全ての人が、イエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得る方を選ぶだろう。しかし、この話が本当のことであるとは到底思えない、作り話としか思えないというのが、日本人の99%である。

では、真理は多数決で決まるのだろうか。辞書によると、真理とは、いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道のことである。つまり、真理とは、客観的な事実であって、多数決で決まるものではない。しかし、私たちは、他の圧倒的多数が信じていること、あるいは、有名な大学の教授や研究者などの権威ある者が発見したことを真理だと思う傾向がある。その代表格が進化論だと思われる。学校やテレビで、進化論が真理であるかのように教えられ、進化論を前提とした話が展開されている。

しかし、進化論は、ただの仮説でしかないということをご存知だろうか。「種の起源」で進化論を提唱したダーウィン自身が、その著書の中で、進化論は、種と種をつなぐ中間種の化石が後に発見されることを前提にしている仮説であることを明記している。ダーウィンが生きていた19世紀後半は、まだ発掘技術が未熟であった。それゆえ、将来、地質学が進歩し、発掘技術が進めば、必ず中間種の化石が発見されるに違いないと彼は信じていた。しかし、2022年になった今でも、中間種の化石は一つたりとも発見されていない。それどころか、進化論では説明できない化石が無数に発見されている。

例えば、進化論では、化石は生き物が死んで、その上に塵が積もって、長い時間かけて埋められて出来ると教えられている。その塵が何千万年と積もって地層を形成すると言う。それゆえ、ある化石が発見された時、その地層の年代から、その生き物が生きてきた年代を推定している。しかし、その何千万年もの地層を縦に貫く「木の化石」が発見されている。これを進化論の理論で説明すれば、この木は何千万年もの間立ち続け、塵によって埋められたことになる。そんなことはあり得るだろうか?また、ある魚が別の小魚をまさに今飲み込もうとしている瞬間を切り取った化石が発見されている。そして、極め付けには、恐竜の足跡と人間の足跡が並んでいる化石が発見されている。恐竜は、人間が登場する遥か昔に絶滅しており、人間と恐竜が同じ時代に生きているなどあり得ないはずである。しかし、実際にそのような化石が発見されている。また、北京原人やネアンデルタール人などの化石は、捏造であることが明らかにされている。これらは完全に人間の化石か、あるいは完全に猿の化石であったり、または、何キロも離れたところに点在している化石を寄せ集めて一つの個体だと説明しているものであったりしているのだ。もはや進化論は完全に崩壊している。

それに対し、聖書は、化石の存在、地層の形成について、単純明快な回答を与えている。それがノアの洪水である。創世記6〜7章に、地球規模の大洪水が起こり、全ての山が水に覆われたことが書かれている。そして、箱舟に乗った8人と生き物たちを除き、地上に生きている全ての人間、生き物が死に絶えたと書かれている。つまり、この時、あらゆる生き物が洪水によって土砂と共に流されて埋められ、一気に強烈な圧力がかけられて、数ヶ月以内という短期間のうちに化石化したのである。

洪水によって最初に埋められたのは水の中に生きている生き物、魚類である。次に埋められたのは水辺に生きている両生類である。 そして、陸地に生きている生き物と続く。知能の発達している人間は、最後まで洪水から逃れて山に登るため、最後に埋められる。よって、地層の最下層にいる化石は魚類、最上層にいる化石は人間となる。つまり、この化石の分布は、進化の過程ではなく、洪水によって埋められた順番なのである。なんと合理的な説明ではないだろうか。

このような学びは、創造論と呼ばれている。是非興味を持った方は、創造論の学びを深めて頂きたい。そして、進化論は真理ではなく、穴だらけの仮説に過ぎないということをご理解頂きたい。科学が進めば進むほど、進化論の穴は見つかるが、創造論を否定する証拠は何ら発見されていない。この創造論の立場に立てば、この世界は創造主なる神によって無から有の創造として造られたのだ。そして、絶対的権威者である神が、被造物である人間に語られたことばが聖書なのである。よって、私たち人間は神のことばである聖書に耳を傾ける必然性がある。聖書を通して私たちは神がおられ、神がどのようなお方であるかを知ることができる。実はそれ以前に、神は自然を通し、歴史を通し、人間の内面(良心)を通して語っておられるのだ。そのことを教えているのがローマ人への手紙1章19〜20節である。

「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」(ローマ人への手紙1章19〜20節)

私たちは美しい景色、完全な生態系、四季の移り変わり、人体の不思議などを見たときに、それらは時間が経てば勝手に出来上がるものでなく、創造主である神によって造られたものであることは、はっきりと認められるので、そのことに関して弁解の余地はないのである。例えば、もし自動車の部品が全て揃っていたとして、それらをそのまま放置して100億年経ったら、自動車に組み上がるだろうか? ましてや、それ以上に複雑な人間の体が、長い時間さえかければ偶然に生まれるはずがない。猿が適当にピアノの鍵盤を叩いたら、ベートーヴェンの曲が聴こえてくるだろうか?絶対にあり得ない。しかし、それをあるとしているのが進化論なのだ。これは神に敵対する存在が、人間を神から遠ざけるためのまやかしなのだ。そのことにどうか気付いて欲しい。

神は、私たち人間を愛しておられるので、無理やり信じさせようとはなさらない。なぜなら、愛には自由意志が必要だからである。YesともNoとも言える中で、自由意志によってYesを選び取るところに愛がある。そうでなければ、人間はただのロボットに過ぎない。神は人間と愛の関係を築くために、人間に自由意志を与えてくださった。その自由意志を、どのように用いるかで、私たちはその結果に責任を負っているのである。私たちは、被造世界を通して神がおられることを知っているにも関わらず、神を神として崇めず、感謝することもなく、自由意志を自らの欲望を満たすために濫用してきてしまった。その結果を刈り取ることは当然の帰結である。しかし、神は、そんな私たちを憐れみ、救いの道を用意してくださったのだ。それがイエス・キリストというお方である。

イエス・キリストは、神であるお方が人としてこの世界に来られた救い主である。イエス・キリストは、ご自身は全く罪を犯したことがないにも関わらず、私たちの罪を贖うために、全人類の罪の身代わりとして十字架で死んでくださった。そして、墓に葬られた。しかし、三日目によみがえり、500人以上の人たちの前にその姿を現された。その後、雲に包まれて天に昇っていかれたのである。イエス・キリストは今も生きておられ、私たちを救うために天で働いてくださっているのだ。このイエス・キリストを救い主として信頼するなら、私たちの過去・現在・未来のあらゆる罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのである。これが神のことばであり、神が私たちに示してくださっている愛である。自由意志によってこの愛を受け取るのか、拒絶するのか、どちらを選ぶかはあなた次第である。私はこの愛を受け取ることを選んだ。どうかあなたも神の愛をこの瞬間に受け取って欲しい。神は、あなたに送ったラブレターの返事を今か今かと待っておられる。

  • 2022/10/01
  • 神の栄光

神の栄光に生きる

天地万物の創造主である神は、何のためにこの世界を創造されたのか、何のために人類を造られたのか、何のために聖書を通して語られたのか、何のために人類を救われるのか、その答えはすべて「神の栄光」のためである。神の栄光と言うと、ピンと来ないかもしれないが、一言で言えば、「神は素晴らしい」ということである。私たち人間は、自然界を通し、また聖書を通して、神が如何に素晴らしいお方であるかを知り、神をほめたたえるために造られ、そのために生きている。神の素晴らしさ、神の栄光に感動しながら生きる人生こそ、私たち人間にとって最も幸せな人生である。では、具体的にどのようにして神の栄光をほめたたえることができるのか、これから確認していきたい。

神は、イスラエルに対する計画、教会に対する計画、天使たちに対する計画など、様々な計画を持っておられる。それらの計画が全て必ず成就することを通して、神はご自身の栄光を表されるのである。よって、聖書を通して神の計画を知り、それがその通り成就していることを確認することで、神は約束を全て守られるお方である、神はなんと信頼できるお方であるかと、私たちは叫ぶようになる。特に、私たちの救いに関する神の計画を知った時、神の栄光をほめたたえずにはおれなくなるだろう。

私たちの救いに関する神の計画について教えられている箇所の一つが、エペソ人への手紙1章4〜5節である。

"すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。"(エペソ人への手紙 1章4~5節)

ここに驚くべき事実が記されている。なんと、私たち信者は、天地創造の前から、キリストにあって選ばれていたのである(これは既に救われている人たちに対する励ましの言葉であって、信じていない人たちは選ばれていないという意味ではない)。

その選びの目的は、私たちが「御前に聖なる、傷のない者」になるためである。これは私たちの頑張りによって可能になるものではなく、神の恵みにより信仰によって可能となる。なんと素晴らしいことだろうか!神は永遠に存在しておられる創造主なるお方であり、歴史を支配し、ご自身の計画を全て成就されるお方である。その深淵なるご計画の中で、私たちが生まれ、そしてイエス・キリストを信じる信仰へと導かれ、神の子とされたのだ。その最終目的が次の節に書かれている。

"それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。" エペソ人への手紙 1章6節

この聖句にある通り、神の恵みの栄光がほめたたえられることが、私たちが選ばれ、神の子とされ、御前に聖なる傷のない者となる最終目的である。よって、私たち人間は、聖書を通して神を知り、神を礼拝して、神の栄光をほめたたえる時、その造られた目的が達成されるのである。その時、私たちはこの上ない至高の幸せを感じることができる。

最後に 救いは神の主権と選びによるものであると同時に、神はすべての人を招いておられる。それは、"すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。"(マタイの福音書 11章28節)とある通りである。この記事を読んでおられることは、神から招かれている紛れもない証拠である。今、その招きに応答し、イエス・キリストを救い主として信じ、神の子とされ、永遠のいのちを頂こうではないか。そのために必要な情報は以下のとおりである。

イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目に蘇られたこと。

この福音の三要素を信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことのできる救い主であると信頼した時、私たちは神の前に罪なしと見做され、永遠のいのちが与えられるのである。もはや死は、滅びではなく、神の御前に行く道の門となる。是非、この祝福を受け取って頂きたい。そして、神の栄光のために生きる人生を共に歩もうではないか。

  • 2022/09/01
  • 携挙

携挙を待ち望む信仰

私たちクリスチャンにとって最大の希望は、復活です。イエス・キリストが紀元30年に私たちの罪のために十字架で死なれ、墓に葬られた後、三日目に栄光のからだに蘇えられました。このイエス・キリストの復活は「初穂」としての復活であり、イエス・キリストを救い主として信じる信仰により、神の恵みによって救われたクリスチャンは、イエス・キリストに続いて復活に与ることができます。では、私たちはいつ復活するのでしょうか?それは、イエス・キリストが私たちを空中まで迎えに来られた時です。その時、イエス・キリストを信じてから死んだ人は、栄光のからだに蘇って天に上げられ、生きている人は生きたまま栄光のからだに変えられて天に上げられます。これを携挙と言います。私たちクリスチャンは、この携挙を待ち望んでいるのです。

携挙の代表的な根拠聖句 使徒パウロが、携挙に関連した7つのステップについて教えています。 テサロニケ人への手紙 第一 4章16~17節 "すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。"

①「主ご自身が天から下って来られます。」

②「号令」。これは、軍の総司令官が発する命令の声です。その  命令で、死者の復活と生者の天への引き上げが起こります。

③「御使いのかしらの声」。この声の主は、天使長ミカエルです。  総司令官であるイエスが命令を出し、副官であるミカエルの復  唱によって計画が動き始めるのです。

④「神のラッパの響きとともに」。ラッパの音は、戦争や聖会に  民を招集するためのものです。ラッパの響きが、携挙が起こる  ための引き金になります。

⑤「そしてまず、キリストにある死者がよみがえり」。死んだ聖  徒が携挙から漏れることはありません。「キリストにある」と  は、聖霊のバプテスマによって普遍的教会の一員となった新約  時代の聖徒のみを指す言葉です。

⑥「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包ま  れて引き上げられ」。携挙の時に生きている聖徒たちは、例外  なしに天に引き上げられます。

⑦「空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主と  ともにいることになります」。復活した聖徒たちと生きている  聖徒たちが、一緒に空中で主イエスに会うのです。

携挙のタイミング 携挙がいつ起こるのか、聖書はそのタイミングを明確には啓示していません。今日かも知れない、明日かも知れない、というのが携挙です。

ヨハネの黙示録 22章20節 "これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。"

この聖句にある「すぐに来る」というのは、その前に起こらなければならない出来事がないということです。つまり、携挙は「神の時が来たら」直ちに起こるのです。

ただし、一つだけ言えるのが、7年間の大患難時代が始まる前までに起こるということです。この立場を、患難期前携挙説と言います。患難期前携挙説の根拠は沢山ありますが、その代表的なものをご紹介します。

ヨハネの黙示録の概観 黙示録の中で、患難期に言及した箇所には、教会という言葉が出て来ません。黙示録1〜3章は患難期前の出来事を扱っていますが、そこには教会は存在しています。黙示録19〜22章は患難期後の出来事を扱っていますが、そこにも教会が存在しています。しかし、その間の患難期そのものを扱っている箇所では、教会への言及がありません。これは、患難期には地上に教会が存在していないことを示唆しています。

ルカの福音書 21章35~36節 "その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」" 「その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨む」とある通り、神の裁きを免れる人は一人もいません。しかし、神の裁きから逃れる方法があると教えられています。それは、信者として「人の子の前に立つ」ことです。携挙に与って、「人の子」であるイエス・キリストの前に立つ者は、神の裁きである大患難時代から逃れることができるのです。つまり、携挙は大患難時代の前に起こるということです。

ヨハネの黙示録3章10節 "あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。" 「試練の時」とは、大患難時代のことです。「試練の時には、わたしもあなたを守る」と訳すと、試練の中での守りであるように読めます。しかし、ここで使われている前置詞「エク」は、分離を意味する前置詞です。よって、この箇所は、大患難時代の中での守りではなく、そこから取り出されるので守られるという意味です。従って、「試練の時から、わたしもあなたを守る」と訳すべきなのです。つまり、教会(信者)は、大患難時代の前に携挙されるということです。

携挙は間近に迫っている 携挙は今日かも知れない、明日かも知れない、という状態が1900年以上続いて来ました。ですので、どうせ携挙はまだ当分来ないだろうと思われるかもしれません。しかし、今、携挙の後に訪れる大患難時代に突入しようとしています。世界統一政府、世界統一宗教、第3神殿、獣の刻印など、大患難時代で現実となるこれらが現実味を帯びて来ました。大患難時代が近いのだとしたら、その前に起こる携挙はもっと近いということです。大患難時代に入ると、世界人口の大半が死滅し、また真の信仰を持つことは文字通り命懸けになります。大患難時代に入っても大勢の人がイエス・キリストを救い主であると信じて救われますが、殉教の死を覚悟しなければなりません。そのようなことになる前に、今、この瞬間にイエス・キリストを信じて救われ、携挙に与ることが最も重要なことです。

イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目に蘇られたことを信じ、イエス・ キリストは今も生きて私たちを救うことのできる救い主であると信頼しましょう。そして、共に携挙を待ち望む信仰を持ち、 今を生きる力を頂きましょう。

マラナタ!(主よ、来てください)

  • 2022/08/01
  • 聖霊

御霊による一致を保つためには

私たちは皆、それぞれ個性豊かで、一人として同じ人間はいません。性別も違えば、年齢も違うし、育った環境も、持っている能力も様々です。そのような私たちに、使徒パウロは「御霊による一致を熱心に保ちなさい」と命じています。では、どのようにすれば御霊による一致を保つことができるのでしょうか。そもそも、なぜ私たちは御霊による一致を保たなければならないのでしょうか。

新しい一人の人

神は、アブラハムという一人の人を召し、その息子であるイサク、またその息子であるヤコブ、そして、ヤコブの12人の息子たちの子孫であるイスラエルの民を、神の民として育てました。イスラエルの民は、ユダヤ人と呼ばれ、モーセの律法によって他の民族と異なった特徴を持つ民族となりました。このモーセの律法が、ユダヤ人と異邦人(非ユダヤ人)の間の垣根となっており、両者は相容れない存在として明確に区分されていました。

神は、ユダヤ人と契約を結び、この契約による祝福はユダヤ人にのみ適用されていました。異邦人がその祝福に与るためには、割礼を施し、ユダヤ人共同体の一員になる必要がありました。しかし、イエス・キリストが十字架の御業によって、モーセの律法を完全に成就されたので、モーセの律法は無効となりました。そして、ユダヤ人も異邦人も共に、イエス・キリストを信じる信仰によって、新しい一人の人を構成するようになったのです。この新しい一人の人のことを、キリストの教会と言います。 私たちは皆、それぞれ個性豊かで、一人として同じ人間はいません。性別も違えば、年齢も違うし、育った環境も、持っている能力も様々です。そのような私たちに、使徒パウロは「御霊による一致を熱心に保ちなさい」と命じています。では、どのようにすれば御霊による一致を保つことができるのでしょうか。そもそも、なぜ私たちは御霊による一致を保たなければならないのでしょうか。

キリストのからだ

イエス・キリストを信じる者はそれぞれ、一つのからだを構成する器官であるとパウロは教えています。

"一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。" ローマ人への手紙 12章4~5節

人間の体は様々な種類の器官で構成されており、各器官がそれぞれ異なる働きをしていますが、それらが有機的に結合することによって、一人の体を作り上げています。それと同じように、多種多様な信者が、イエス・キリストというお方を信じる信仰によって、有機的に結び付けられて、キリストのからだ、つまり、キリストの教会を築き上げているのです。

様々な一つ

私たちは、イエス・キリストを信じる信仰を持った瞬間に、聖霊のバプテスマを受けます。バプテスマとは、一体化することを意味しています。よって、聖霊のバプテスマとは、信者がキリストと一体となり、キリストの教会の一部に加えられることを言います。この聖霊のバプテスマは一つだけであり、他にはありません。同じように、信者に内住する聖霊(=御霊)も一つです。キリストのからだも一つであり、信仰の内容も一つです。そして、この世界を創造され、支え、支配しておられる神も一つです。このように、私たちは様々な「一つ」を共有しているお互いなのです。

御霊による一致

人間の身体は、各器官が好き勝手に動いたら、1日たりとも生きることはできません。各器官が、生命を維持するという共通目的のために、それぞれの働きをすることによってはじめて、身体は正常に機能します。それと同じように、キリストのからだを構成する私たちも、キリストの教会を建て上げるという共通目的のもと、それぞれに課された働きをすることが大切なのです。そこでポイントとなるのが、「御霊」です。御霊が豊かに働かれることによって、私たちは一致した働きをすることが可能となるのです。私たちは、互いに謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれるように、御霊に祈り求めることで、一致を保つことができるのです。

私たちは、各自に与えられた賜物を忠実に用いて、教会を建て上げていくことを使命として与えられています。正しく御言葉を学び、御霊による一致を求めて祈りながら、日々賜物を発揮して参りましょう。

  • 2022/07/01
  • 聖霊

聖霊の賜物を発揮する人生のススメ

「聖霊の賜物」という言葉を聞いたことはあっても、その内容を聖書的に正しく理解出来ているでしょうか。また、自分にはどんな賜物が与えられているか分からない、どうすればそれを発見できるか分からないという方もおられるのではないでしょうか。 これから、聖霊の賜物について聖書的に正しく学び、自分に与えられている聖霊の賜物を発見する旅に出ましょう。 聖霊の賜物を見つけ、それを豊かに用いた時に、私たちはより祝されたクリスチャンライフを送ることができます。

Ⅰ. 聖霊の賜物の定義

聖霊の賜物とは、奉仕のために神から与えられた能力のことを言い、ギリシア語では「カリスマ」と言います。このカリスマと言う言葉は、聖霊の賜物という意味だけでなく、神の恵みを表している言葉で、「救い」、「摂理的な守り」といった意味もあります。聖霊の賜物は、恵みであるがゆえに、人間の努力によって得られるものではありません。

聖霊の賜物に関して様々な誤解がありますが、次のように区別しておく必要があります。まず、聖霊の賜物は、能力のことであり、それは特定の場所、地域に限定されるものではありません。また、聖霊の賜物は、それを持った人が全てそれに関する職責(役職)に就くわけではありません。また、聖霊の賜物は、特定の年齢の人々のためだけに用いられるものではありません。また、聖霊の賜物は、才能とは違って、信者にのみ与えられるものであり、教会に仕えるために用いるべきものです。そして、聖霊の賜物は、その人の霊性とは無関係であり、例えば伝道の賜物があったとしても必ずしも霊的に成熟しているとは限りません。

Ⅱ. 聖霊の賜物の特徴

聖霊の賜物は、復活し、昇天されたキリストによって教会に与えられたものであり、教会を建て上げるためのものです。また、聖霊の賜物は、キリストが源であり、聖霊が仲介者となって「みこころのままに」教会に与えられたものですので、お互いの賜物をうらやんだり、ねたんだりする必要はありません。 この聖霊の賜物は、イエス・キリストの福音を信じて、聖霊のバプテスマを受けた瞬間に与えられるものであり、全ての信者に少なくとも一つは与えられています。ただ自分にどんな聖霊の賜物が与えられているかはその時に分からなくても、霊的成長と共に発見することが多いです。全ての聖霊の賜物を持っている人はおらず、何も持っていない人もいないため、お互いがお互いを必要としているのです。

聖霊の賜物は、普遍的教会に与えられているので、1つの地域教会に全ての聖霊の賜物が与えられているわけではありません。また、ある世代の教会にすべての聖霊の賜物が与えられているわけではありません。例えば、使徒と預言者という聖霊の賜物は、初代教会時代の教会に与えられたものであり、今の世代には与えられていません。神は各人、各教会、各世代に必要なものをご存知であり、必要な聖霊の賜物を備えてくださいます。

Ⅲ. 聖霊の賜物の種類

聖書の中に、聖霊の賜物が19種類挙げられていますが、これは例示に過ぎないので、他にもあるかもしれません。しかし、ほぼカバーされていると考えられますので、これらを知ることで、無いものねだりをしなくて済みます。また、どのような種類の聖霊の賜物があるかを知ることで、自分に与えられている聖霊の賜物を発見するのに役に立ちます。

1ぺテ4:10に、「それぞれが賜物を受けている」とあることから、誰もが少なくとも1つは聖霊の賜物が与えられていることが教えられています。また、「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」とあることから、聖霊の賜物は、信者の間、教会の中で行使されるべきものであることが教えられています。私たち信者には、良き管理者として、聖霊の賜物を本来の意味において、愛に基づいて行使する責任があります。

第1 預言すること
これは神から直接の啓示を受ける人であり、預言者が語ったことは必ず成就しなければなりません。もし100%でなければ偽物です。

第2 奉仕すること
通常のクリスチャンが持つ以上に高いレベルで奉仕することができます。

第3 教えること
真理をまとめ、聞く人に分かるように語る能力が、一般的な人々より、はるかに高い人です。

第4 勧めをすること
真理を実際生活に適用するように人々を励ますことに長けている人です。第3と第4は同じ人に与えられることが多いです。

第5 分け与えること
より多くのものを分け与えることができる人です。

第6 指導すること(管理すること)
長老職に就く人はこの賜物を持っていなければなりません。

第7 慈善を行うこと
病人、貧しい人に喜んで助けの手を伸ばすことができます。

第8 使徒
使徒には特別な資格が必要です。12使徒は、イエスが洗礼を受けた時から、弟子であった人で、復活のイエスに出会った人でなければなりません。第2グループの使徒たちは、復活にイエスに出会った人でなければなりません。ですので、現在はこの資格を有する人はいないため、現代の使徒はあり得ないのです。

第9 伝道者
人々をキリストに導く上で特に大きな成果を上げる人です。

第10 牧師・教師
教師の賜物があっても、牧師の賜物があるとは限りませんが、牧師の賜物がある人は教師の賜物も備わっています。この賜物を持った人が、牧師・教師の職責に就くべきです。

第11 独身の賜物
独身生活を通して、より多くの時間と力を主の御業のために捧げることができます。

第12 知恵のことば
学んだ霊的真理を具体的状況に適用する能力に長けた人です。これは第4:勧めをする賜物と関連があります。

第13 知識のことば
御言葉を理解し、それを体系化し、関連づける能力に長けた人です。これは第3:教える賜物と関連があります。

第14 信仰
いかなる場合でも疑いなく神を信頼することができる人で、信仰の偉人たちはこの賜物を持っています。

第15 いやしの賜物
与えられたり、取り去られたりするものであり、一度与えられたからといって永続的に持っているものではありません。パウロもこの賜物を持っていましたが、自分の病を治すことはできませんでした。

第16 奇跡を行う力
与えられたり、取り去られたりするものであり、永続性はありません。

第17 霊を見分ける力
教えの源が悪霊的なものかどうかを直ちに見分けることができます。

第18 異言
学んだことのない言語を話す能力のことであり、意味のないたわごとではありません。それは文法があり、意味がある実在の言葉です。

第19 異言を解き明かす力
単一言語の会衆の中では、この賜物があることが、異言の賜物を行使するための条件となります。

Ⅳ. 聖霊の賜物の発見と開発

聖霊の賜物は、生まれつき持っている才能や能力とも、習得した技術とも異なります。聖霊の賜物は、信じた瞬間に神から与えられたものですが、必ずしも自分に与えられている賜物に気付かないままで人生が終わることもあります。ですから、自分に与えられている聖霊の賜物を発見する必要があります。

そのためには、まずどういう聖霊の賜物があるか知ることが重要です。聖書にリストされている19個の聖霊の賜物について知り、そのリストにない賜物を求めるべきではありません。また、聖霊の賜物は、キリストのからだを建て上げるために与えられているので、教会の活動に積極的に係り、信徒の交わりの中でお互いに仕え合うことで、自分の賜物を発見することができます。自分の賜物は、他の誰かが教えてくれることが多いため、お互いにお互いの賜物を教え合うことが大事です。信者は、複数の賜物を持っていることが多いので、一つの賜物を発見して満足することなく、複数あるという前提で、積極的に教会活動に関わり、賜物を探す努力をすることが大切です。

最後に 聖霊の賜物のリストを見ても、自分にはどんな賜物があるか分からないという方がおられるかもしれません。そのような時は、是非どんなことでも良いので、教会や聖書研究グループで奉仕をしてみましょう。その奉仕をしていて楽しい、周りの人に喜んでもらえた、といった経験から、自分の賜物を発見することができると思います。自分の賜物を発見して、それを磨き、豊かに用いて行く時に、私たちは最高の生き甲斐を感じることが出来ます。

  • 2022/06/01
  • 聖霊

聖霊の6つの働き

今年は6月5日がペンテコステの日、つまり、聖霊が降臨したことをお祝いする日です。前回に引き続き、聖霊について聖書的に正しく学びたいと思います。今回は、聖書の6つの働き、すなわち、新生、内住、聖霊のバプテスマ、証印、油注ぎ、聖霊の満たしについて確認したいと思います。これらの働きを理解することで、今の時代に聖霊がどれほど重要な働きをしておられるか、また、私たちがどれほどの恵みの中を生きているかを知ることができます。

Ⅰ. 新生

新生とは、イエス・キリストを信じた瞬間に経験する救いの始まりであり、救いの完成に向かうための土台です。この新生には、①新しいいのち、②霊的誕生、③霊的復活、④新しい創造、⑤信じた瞬間に神の子として受ける永遠のいのち、という意味が込められています。

新生は、人間の努力によってなされるものではなく、神が私たちに与えてくださるものです(ヨハ1:13)。また、神の国に入るためには、超自然的誕生、つまり、新生が必要です(ヨハ3:5~6)。そして、イエス・キリストを信じて新生した者は、新しく造られた者となるのです(2コリ5:17)。

この新生は、人の体験や感情とは区別されるべきものであり、感情が伴う人もいれば、そうではない人もいます。新生した人は、新しい性質を受け、徐々に神の性質を慕い求めるようになります。そして、肉体的に生まれた人が母の胎内に戻ることが出来ないのと同様に、新生によって与えられた「永遠のいのち」は、決して取り去られることはありません。

Ⅱ. 内住

内住とは、聖霊が信者のうちに住んでおられることを意味しており、信者に対する聖霊のすべての働きの基礎となるものです(ロマ8:9、1コリ3:16)。

聖霊の内住は、人間の努力によるものではなく、神からの一方的な贈り物であるため、すべての信者がこれを受けています。旧約時代にも一部の人に聖霊の内住がありましたが、取り去られることがありました。しかし、メシアの死と復活により、聖霊はすべての信者に永久に内住するようになりました。

聖霊の内住の結果、信者は聖霊の宮となりました。聖霊は、信者個人に、また、地域教会に、そして、普遍的教会に宿ることになりました。

Ⅲ. 聖霊のバプテスマ

聖霊のバプテスマとは、信者がキリストと一体となり、キリストの教会の一部に加えられることを言います。

この聖霊のバプテスマは、恵みの時代に入ってから与えられた祝福であり、すべての信者が聖霊のバプテスマを受けています。また、聖霊のバプテスマは、信者を教会に繋げるものであって、後になって繰り返されるものではない、一度限りのものです。聖霊のバプテスマの結果、信者はキリストの死、埋葬、復活に繋がり、キリストのからだに連なりました。

使徒の働きにおいて、聖霊のバプテスマの結果として異言があったのは、賜物としての異言であり、それは使徒たちが語る福音の権威、信頼性を証明するために与えられたものです。普遍的に異言が語られると教える記述は聖書のどこにもないため、異言を聖霊のバプテスマのしるしと考えてはなりません。聖霊のバプテスマの結果は、異言ではなく、教会の一員になることです。

Ⅳ. 証印

聖霊の証印は、ペンテコステ以降に、信者に与えられるようになった祝福です。この証印は、神様と信じる側との契約が必ず実行されることの保証となっています。

私たちが御国を受け継ぐこと、また、私たちの贖いが完成することは、神の栄光に繋がります。それが必ず成就する永遠の保証として聖霊の証印が押されているのです。この証印が押されたことによって、私たちは、神の所有物となっているため、神の主権が私たちに及び、私たちには神から委ねられた責任があり、神の守りが保証されています。

この聖霊の証印は、信じた瞬間に信者全員に与えられるものであり、完全に神の働きによるものなので、証印を求めて祈るようにとの勧めはありません。また、聖霊の証印は、それが押されたことを体験的に認識するものではなく、信じた瞬間に聖霊の証印が押されているのだという神のことばを、信仰によって受け入れるべき真理です。その後に、体験や力や喜びが湧き上がってくるのです。

Ⅴ. 油注ぎ

油は聖霊を象徴しており、人物や物に油を注ぎかけると、それは聖なるものとなります。油注ぎによって、主から与えられた任務を全うするための力が与えられます。

旧約時代における油注ぎの例として、幕屋の器具や祭司や大祭司を聖別するための油注ぎ、サウルやダビデが王としての任務に相応しい力を受けるための油注ぎ、エリシャが預言者としての力を得るための油注ぎなどがあります。このように、旧約時代の油注ぎは、任務の遂行と深い関係があります。

新約時代の油注ぎの例として、キリストが受けた油注ぎと、新約時代の信者が受ける油注ぎがあります。キリストが受けた油注ぎは、旧約時代のそれと同じで任務遂行のためでした。しかし、新約時代の信者が受ける油注ぎは、回心の時に起こることで、それには永続性があります。この油注ぎは、キリストとの関係に関わる事柄であり、御言葉の真理を理解する力と関係があります。

旧約時代の油注ぎは、神から召命を受けた特定の人々にしか起こらず、その体験は繰り返されることがありました。それに対し、新約時代の油注ぎは、全ての信者に起こっており、その体験は永続性があります。

Ⅵ. 聖霊の満たし

聖霊の満たしは、信者の霊的成長と関係がある聖霊の働きのうちの一つです。聖霊の満たしは、聖霊の支配に服することであり、信者が自分の心を開いた時に起こるものです。

心のある部分を聖霊に対して開くと、その部分が聖霊の支配下に置かれ、また別のある部分を聖霊に対して開くと、そこも聖霊の支配下に置かれるというように、新しい領域を聖霊に委ねた時に、聖霊の満たしは繰り返し起こります。

新生・内住・聖霊のバプテスマ・証印・油注ぎの5つに関しては信じた瞬間に起こることであるので、それらに関する命令はありませんが、聖霊の満たしについては、「御霊に満たされなさい」(エペ5:18)のような命令があります。この聖霊の満たしは、聖霊がしてくださることであり、信者は従順になって聖霊の満たしをして頂ける状態を自ら作ることが求められています。

まとめ

以上が、聖霊の6つの働きです。私たちはイエス・キリストを信じた瞬間に、聖霊はこれほどの偉大な御業を為されておられるのです。今、私たちが求めるべきは、聖霊の満たしです。 聖霊に心を明け渡し、聖霊の支配の中で生きていくことができますように。

  • 2022/05/01
  • 聖霊

陰の主役『聖霊』にスポットライトを当てる

イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られた後、40日後に父なる神の御許に昇天されました。その10日後に、聖霊が降臨し、教会が誕生しました。それ以降、今日まで続いている教会時代は、聖霊が中心的に働く時代です。その教会時代に生きる私たちにとって、聖霊の働きは必要不可欠であるにも関わらず、キリスト教界では聖霊に関して混乱が生じています。聖書的に聖霊を正しく理解することは、私たちの日々の生活が祝されるために非常に重要となります。今回と次回で、聖霊の働きについて聖書的に正しく学びたいと思います。



Ⅰ. 聖霊とは?

聖霊は人格を持ったお方である。 聖霊は自分のことを語らず、聞くままを語るお方であり、その本質は、キリストを目立たせることにあります。それゆえ、聖霊は目立つことがなく、教会史の中で軽視されてきました。ある人たちは、聖霊を神が働かれる力を擬人化したものであるとして、聖霊の人格を否定しました。しかし、聖霊の人格を否定するというのは、聖書の教えに反するものです。

聖霊というお方には、人格が持つ特徴である「知情意」が備わっています。聖霊は神の御心を探り、それを知っておられ、また人の心を探り知り、聖徒のためにとりなしをされます。また、聖霊は悲しむことがあるお方であり、意志をもってパウロの宣教を導かれたり、思いのままに賜物を分け与えてくださったりするお方です。また、聖霊は、信者を真理に導いたり、奇跡をおこなわれたり、人から欺かれたり、エルサレム会議の決定に参加されたりなど、人格を持つ存在として行動しておられます。

聖霊は神である。
主イエスが、ヨハ14:16で聖霊を「もうひとりの助け主」と仰いましたが、これは聖霊が主イエスと同質の別の存在であることを意味しています。つまり、聖霊は御子イエスと同じ神性をもっているということです。また、聖霊は「主の御霊」、「イエスの御霊」、「神の御霊」などと呼ばれているように、聖霊の呼び名がその神性を証明しています。

聖霊は、全知全能であり、遍在なるお方です。また、聖書に霊感を与え、処女降誕を可能にしました。これらの聖霊の性質と行動は、聖霊が神であることを証明しています。また、新約聖書は聖霊を【主】(ヤハウェ)と同じと見ており、聖霊を冒涜することは神を冒涜することとされており、「父、子、聖霊の御名」として聖霊が父と子と同列に置かれていることからも、聖霊が神であることが示されています。



Ⅱ. 時代ごとの聖霊の働き

旧約時代
聖霊は全知全能の力をもって天地創造の御業に参加されました。また、聖霊は、ダビデやイザヤのような預言者に神の思いを啓示し、それを誤りなく理解し、書き記すように導かれました。旧約時代における聖霊の働きは、一部の人たちの中に宿る、ある人たちの上に下る、ある人を満たし、導くなど、その範囲が限定的でした。また、その働きは一時的であり、聖霊がその人から離れることもありました。よって、新約時代と異なり、聖霊の臨在が永遠に続くという約束はありませんでした。

福音書時代
イエス・キリストが乙女マリアから生まれる時、聖霊の力によって、生まれる子は聖なる子となることが保証され、イエスは罪がない存在として生まれました。この処女降誕は聖霊の働きなしにはあり得ないことでした。キリストは、聖霊に満たされ、聖霊の油注ぎを受け、聖霊によって力を受けて公生涯を歩まれました。人間としてのイエスは、神としての性質を利用して力を発揮したのではなく、聖霊の導きに完全に従うことによって、また、父なる神の御言葉に従うことによって、あのような完璧な公生涯を送ることができました。それゆえ、聖霊の働きがなければ、イエスがあのような公生涯を送ることはできなかったのです。

教会時代
父なる神は遍在の神ですが、天にいます神でもあります。また、子なる神も遍在の神ですが、父なる神の右の座に座しておられます。このように、聖霊なる神も遍在の神であると同時に、ペンテコステの日を境に、この地を住まいとするようになりました。

現在の聖霊の主な働きは伝道です。つまり、罪について、義について、さばきについて一人一人の心に示すことによって、人々を救うことが、今の聖霊の中心的働きです。私たちが伝道する時に、聖霊が語ろうとされていることと私たちが語っていることが完全に一致しなければなりません。罪とは、神を信じないことであり、特にイエスをメシアとして信じないことが罪の本質です。また、義とされる、つまり、神の前で正しいとされることは、自分が努力するのではなく、既に義を達成したイエスを信じることによって与えられるのです。そして、やがてすべての人は裁かれます。サタンは既に裁かれているので、サタンに従うならば、自分が従っている者(サタン)と同じ運命になります。だから赦しを受けなければならないのです。私たちはこのことを語らなければなりません。これが今の時代における聖霊自身のお働きです。

携挙〜大患難時代
将来、教会が携挙された時、聖霊は天に戻られます。それによって、悪魔の力を抑えている力が取り去られるため、悪魔がしたい放題する大患難時代がやってくるのです。それでも聖霊は依然として遍在の神であり、ペンテコステ以前の働きの状態で働きを続けられます。



Ⅲ. 最後に

陰の主役
聖霊というお方は、恵みの時代である今、神の計画を進めておられる主役ですが、ご自身を主張せず、キリストの栄光を表し、人々を救いへと導いておられます。まさに、陰の主役と言えます。この陰の主役は、私たち人間を用いて、神のご計画を進展されるお方です。それゆえ、私たちは、私たちの役割をしっかりと認識することが、聖霊が豊かに働かれるために重要なこととなります。人類救済計画という大舞台で、陰の主役と共に大胆に演じる、ダイナミックな人生を送っていこうではありませんか。

  • 2022/04/01
  • 希望

復活信仰こそ、真の希望

初穂としての復活

イースターは、イエス・キリストが復活された、という歴史的事実を記念するお祝いである。このキリストの復活は、「初穂」としての復活であることが、コリント人への手紙第一15章20〜23節で教えられている。

"しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中から よみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。"(コリント人への手紙 第一 15章20~23節)

私たち人間は、必ず死ぬ。それは、最初の人間であるアダムが全人類の代表として行動し、罪を犯したからである。しかし、イエス・キリストが神の義を全て成就し、十字架で死なれたことによって、全人類の罪が贖われた。よって、アダムという一人の人を通して死が来たが、イエス・キリストという一人の人を通して死者の復活が来たのだ。このように、死と死者の復活は、共に「一人の人を通してもたらされる」という点で共通点がある。

しかし、死は全ての人間に適用されるのに対し、死者の復活は「キリストに属している人たち」、つまり、イエス・キリストを信じる信仰を持った人間にのみ適用されるのだ。この死者の復活には、順序があり、まずキリスト、そして、キリストが再臨される時に、キリストを信じる者が復活するのである。キリストの復活は、それに続く復活があるから、「初穂」なのである。この復活信仰こそ、真の神を信じる者に持つことが許されている最大の希望である。

アブラハムの復活信仰

この復活信仰は、イエス・キリストが来られる約2,000年前に生きたアブラハムに遡ることができる。アブラハムは、ひとり子であるイサクを「全焼のささげ物として献げなさい」と神に命じられた時、復活信仰を持っていたので、この命令に従うことが出来た。なぜアブラハムは復活信仰を持つことが出来たのか。それは、アブラハムの子孫は星の数ほどになる、という神の約束を信じていたからである。神が約束されたことは必ず成就するとアブラハムは信じていたので、もしイサクが死んでも必ずイサクは蘇るとアブラハムは信じたのだ。その信仰を表すため、アブラハムは本気でイサクを殺そうとして刃物を取った。その時、神はアブラハムの信仰を認め、介入された。

神は約束されたことを必ず成就するお方であるが、神がアブラハムに約束されたことはまだ完全には成就していない。神はアブラハムに、土地、子孫、祝福の3つの約束をされた。そのうち、特に土地の約束はまだ成就していない。神がアブラハムに与えると約束された土地を所有しないままアブラハムは死んだ。これは神の約束が成就しなかったということだろうか。いや、絶対にそんなことはない。神がアブラハムに約束した土地の約束は、アブラハムが復活した時に成就するのだ。その時とは千年王国である。

千年王国の希望

千年王国とは、キリスト(=メシア)が王としてこの地上を支配する王国のことであり、メシア的王国とも呼ばれる。旧約聖書における預言のピークが、このメシア的王国である。イエス・キリストが来られた時、人々は、約束の救い主(メシア)がやってきた、すぐにメシア的王国が到来すると信じていた。確かに、ユダヤ人が民族的にイエスをメシアとして信じていれば、すぐにメシア的王国は到来していた。

しかし、イエスがメシア的奇跡(メシアにしか起こせないとされている奇跡)を起こした時に、ユダヤの宗教的指導者たちがイエスの力を「悪霊どものかしらベルゼブル」によるものだとして、イエスがメシアであることを拒否した。これがユダヤ人の民族的総意となったため、メシア的王国の到来は将来の世代に延期されてしまった。それから約2,000年が経った今、そのメシア的王国が到来する足音が聞こえてきた。

イエスは、「オリーブ山の説教」と呼ばれる、終末時代に起こる出来事を語られた時、「世が終わる時のしるし」、つまり、今の時代が終わり、メシア的王国が到来する前兆とは何であるかを預言された。それが「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります」(マタイの福音書24章7節)というものである。これは、世界戦争が起こり、世界中で大飢饉や大地震が起こるということである。人類史上、最初に起こった世界戦争とは、第一次世界大戦(1914年)であり、この時から、「終わり」が始まった。

また、20世紀に入ってからロシア、中国、ウクライナなど世界各地で数百万人規模の死者が出る飢饉が起こっている。さらに、20世紀に入ってからマグニチュード6以上の大地震の数が激増し、特に1950年から1959年までの10年間で1466回も起こり、今も同様の頻度で大地震が起こっている。まさに陣痛のように被造世界のうめきが加速しているのが今という時代である。この先、さらに未曾有の災害や戦争が起こる7年間の大患難時代が待っている。しかし、その先にメシアの再臨があり、メシア的王国が産声をあげるのである。

私たちに待っている未来

今、イエス・キリストの福音を信じて救われた私たちクリスチャンが待ち望んでいるのは「携挙」である。携挙とは、イエス・キリストが迎えに来られ、全てのクリスチャンが天に携え挙げられることである。紀元30年のペンテコステの日に聖霊が降臨し教会が誕生して以来、携挙の日までに救われた全てのクリスチャンが携挙の対象となる。携挙の日にすでに死んでいたクリスチャンは栄光のからだによみがえり、生きているクリスチャンは生きたまま栄光のからだに変えられ、キリストと共に父なる神のおられる天に行くことができる。

この携挙は、いつ起こるか誰にもわからず、父なる神のみがご存じである。しかし、大患難時代が始まる前までに起こることだけは分かっている。大患難時代は本当に厳しく、死を覚悟しなければならない。そうなる前に、携挙がまだ起こっていない今、まさにこの今という時に、イエス・キリストを信じ、救われることが重要である。クリスチャンは携挙され、大患難時代の終わりにイエス・キリストと共に地上に再臨し、千年王国に入るのである。これが私たちに待っている未来である。

最後に、救われるために必要な「福音の3要素」について確認したい。その内容は、コリント人への手紙 第一 15章3~4節に書かれている。

"私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、"

以上のことを信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことのできるお方であると信頼した時、私たちは罪赦され、永遠のいのちが与えられ、携挙に与ることができる。 一人でも多くの方が、このイエス・キリストの福音を信じ、救われ、共に携挙に与ることができるようになることを願い、祈っている。

  • 2022/03/01
  • ヤベツの祈り

歴代誌第一4章9〜10節「ヤベツの祈り」

「ヤベツは彼の兄弟たちの中で最も重んじられた。彼の母は、『私が痛みのうちにこの子を産んだから』と言って、彼にヤベツという名をつけていた。 ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。』神は彼の願ったことをかなえられた。」(歴代誌第一 4章9~10節)   


2022年度広島平和教会テーマ聖句の背景

広島平和教会の過去を振り返ると、昨今は、非常に閉鎖的でかろうじて存続してきた内向き指向な状態だった。しかし、去年から広島聖書フォーラムとして聖書フォーラム入りしたことなど、体勢が整い、いよいよ外を見ることができる、いわば地境を広げることができるようになってきた。今までは教会内の垂直の成長しか考えて来なかったが、水平の成長を考えることができるようになってきた。与える地境も、受ける地境も広がり、伝道の地境も、各聖書フォーラムとの自立と共生の関係も広がってきた。そのような中、歴代誌第一4章9〜10節「ヤベツの祈り」を2022年度広島平和教会のテーマ聖句とした。

歴代誌第一とは

歴代誌第一と第二は、元は一巻の書であったが、後にギリシア語訳聖書である七十人訳聖書で2分割された。著者は不明であるが、ユダヤ人の伝承ではエズラであるとされている。執筆年代は、バビロン捕囚以降であり、ヘブル語聖書の最後の書である。歴代誌の最初の9章の内容は、系図が中心となっている。バビロン捕囚によって散らされたユダヤ人にとって、王家の家系と祭司の家系を再確認する必要があった。そこで、歴代誌では、ユダ(南王国)におけるダビデ王朝の家系の確認、および、レビ族の家系の確認に強調点が置かれている。この系図によって、ユダ族とダビデが神によって選ばれた器であることが証明されている。

歴代誌第一を読み始めると、アダムから始まり、カタカナの名前の羅列が延々と続いている。これはマタイの福音書1章の比ではない。ただ漠然と読むと右から左に抜けてしまうが、中心人物を踏まえると読み方が変わってくる。1章1〜4節はアダム、1章5〜16節はヤフェテとハム、1章17〜27節はセム、1章28〜34節はアブラハムなど、中心人物を元に、塊として読むと、情報が整理される。そして、2章3節からユダの系図が始まって、ユダの息子ペレツの系図、ペレツの息子ヘツロンの系図と続く。ヘツロンの息子のうち、ラムから続く子孫の中にダビデが登場する(2章15節)。その後も、ヘツロンの系図が延々と続くが、3章に入ると、ダビデの系図が挿入句のようにして現れる。これにより、ダビデがペレツ-ヘツロンのラインから出ていることが示されている。また、ダビデの子孫たちも、先祖を辿ればユダにまで遡ることを確認することができる。

ヤベツの祈りに込められた意義

4章に入ると、再びユダの系図が始まる。そして、9節にヤベツという人物の名前が現れるが、ヤベツは誰の子という記載がなく、唐突にその名前が出てくる。つまり、ヤベツの系図は明示されていないのである。このヤベツに関しては2節に渡って説明が書かれている。それまでの系図では、単に名前が出てくるだけで、説明文はほとんどなかっただけに、ヤベツは特別扱いされていることが分かる。では、ここで歴代誌第一4章8〜9節を紹介する。

「ヤベツは彼の兄弟たちの中で最も重んじられた。彼の母は、「私が痛みのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけていた。ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。」

ヤベツという名は「痛み」「悲しみ」に由来している。そのヤベツが神の偉大さを知って、地境を広げる祈りをした。これは、彼が持つ大きな神概念に基づく、信仰の祈りであった。その祈りは神の御心にかなったものであったので、神は彼の願ったことをかなえられたのである。 広島という街も、広島平和教会も悲しみや痛みを通過して、次に地境を広げる段階に来ている。自分が理解している神の領域を広げることが、自分の地境を広げることに繋がる。

神の偉大さを発見すると、それが祈りに繋がり、献金に繋がり、伝道につながっていく。痛みの中を通過した子どもが一番愛され、重んじられているのだということの確信を深める一年にしたい。その思いから、2022年度の広島平和教会のテーマ聖句を「ヤベツの祈り」とした。

私が期待する地境の広がり

ヤベツの祈りは、繁栄の神学という文脈の中で語られることが多いが、それは誤解に基づくものである。ヤベツは、自己中心的な思いで地境が広がるように祈ったのではなく、神の御心を求め、自らの地境が広がることを通して、神の偉大さが現されることを願ったのである。私は、広島平和教会の伝道師として、去年6月から活動を始めさせて頂いている。それから約9ヶ月が経ったが、当初想像すらしなかったような展開に驚いている。

最初は、広島平和教会の教会員のみを対象とした読書会から始まった。その後、10月からは毎月1回日曜礼拝でメッセージをさせて頂くようになった。また、オカリナ賛美の動画も作成し、オカリナの調べに合わせてショートメッセージを書かせて頂くようになった。YouTubeを通して少しずつメッセージを見てくださる方が増え、この働きを主が豊かに用いて祝福してくださっていることを感じている。これからも広島平和教会から全国へ、世界へと神のメッセージが届けられるよう、「地境を広げてくださいますように」と祈り続けていきたい。それが、神の御心であると堅く信じ、これからも福音を宣べ伝え続けていきたい。今年一年が終わった時に、やっぱり神は偉大なるお方である、ということを再発見できることを期待している。

  • 2022/02/01
  • 神が人と結ばれた契約

神が人と結ばれた契約(5)

シナイ契約締結に至る文脈

神はアブラハムという一人の人を選んで神の民であるイスラエル民族を生み出されました。アブラハムの後、イサク、ヤコブ、12人の息子たちという形で、イスラエル民族は成長してきたのですが、まだ70人ほどというすぐに断ち消えてしまいそうな状態でした。

そこで、彼らが異民族からの影響を受けずに純粋培養されながらその数を増やすために、神は彼らがエジプトのゴシェンの地で生活するように導かれました。神はアブラハム契約の故に、彼らを守られたので、その数はみるみる増えていきました。そのことに恐れを感じたエジプトの王は、彼らを奴隷として苦しめるようになりました。

彼らは400年間奴隷として苦しむのですが、神から召命を受けたモーセという人物によって、約束の地へ帰還するためにエジプトから脱出しました。そんな彼らに、神によって救われた民として如何に生きるべきかという指針として、「モーセの律法」が与えられました。このモーセの律法をもとに神とイスラエルの民の間で結ばれたのが、シナイ契約です。

シナイ契約の概要

シナイ契約の当事者は、神とイスラエルの民であり、モーセがその仲介者となりました。その内容は、出エジプト記20:1から申命記28:68まで続く、実に広範囲に及ぶものです。このシナイ契約の主要な条項は、モーセの律法であり、合計613の具体的な規定から成っています。モーセの律法は、その内訳は、365が禁止令、248が積極的命令となっていますが、その一つでも破ると律法全体を破ったことになるという性質を持っています。また、シナイ契約は条件付契約であり、モーセの律法に従順な者には祝福が与えられ、不従順な者には呪いが下るという原則があります。

シナイ契約の条項

上記の通り、モーセの律法は613もありますが、重要なポイントは以下のとおりです。

(1)血のいけにえの重要性
モーセの律法には5種類の捧げ物が定められています(レビ1〜7章)。この規定に従って動物の血を流すことで、「罪を覆う」ができますが、罪を除くことはできませんでした。キリストの血だけが罪を除くことができるのです。

(2)食物規定に付加された制限
食べても良い動物は、ひづめが分かれ、反芻するものに限定されました。魚はひれと鱗を持つものに限られ、鳥は猛禽類が禁じられ、昆虫は特定の種類のイナゴに限定されました。

(3)死刑の拡大
ノア契約では、殺人だけが死刑の対象でしたが、偶像礼拝、姦淫、神に対する冒涜、父母に対する冒涜、安息日を破ること、魔術を行うこと、などが死刑の対象となる罪として加わりました。

(4)割礼の命令
割礼は、アブラハム契約のしるしとして与えられた命令でしたが、モーセの律法への従順を示す手段として再度命じられました。

(5)安息日
週の七日目を安息日として、この日にはいかなる仕事もしてはならないと命じられました。この安息日は、シナイ契約のしるしであり、イスラエルが神によって選び分けられたこと、また、出エジプトの出来事によって奴隷から自由人になったことを記念するものです。

モーセの律法の目的

モーセの律法は、救いの手段として与えられたものではなく、エジプトから贖い出された人々に与えられたもので、その目的は以下のとおりです。

(1)神の聖さを示すこと、また、神との正しい関係を保つために人が満たすべき義の基準を示すこと。

(2)旧約時代の聖徒たちに生活規範を与えること。

(3)イスラエルの人々に、個人及び集団で礼拝を捧げる機会を与えること。 その例としてレビ記23章のイスラエルの7つの祭りが挙げられます。

(4)ユダヤ人を他の民族から明確に区別すること。 礼拝の習慣、食習慣、性的習慣、衣服に関する習慣、髭の切り方など、様々な形でユダヤ人は他の民族から区別されました。

(5)「隔ての壁」となること。 モーセの律法は、ユダヤ人に与えられている霊的祝福に異邦人が与ることのないように、両者を区分する「隔ての壁」となりました。しかし、キリストの十字架によってこの「隔ての壁」は打ち壊されました。

(6)罪を明らかにすること。 律法というルールが与えられることによって、人は自分が罪を犯したことを知ることができます。

(7)より多くの罪を人に犯させること。 罪人は、数々の掟が与えられると、より多くの罪を犯したくなる性質を持っています。

(8)罪人を信仰に導くこと。 律法によって罪が明らかになり、またより多くの罪を犯すことによって、人は自らの行いで神に義とされることは不可能であると悟ることができます。よって、キリストを信じる信仰によって、救われる必要性を認識するようになります。つまり、律法は、人をキリストへと導く養育係としての機能を果たしたのです。

モーセの律法からの解放

新約聖書は、モーセの律法がキリストの死とともに無効になったと、はっきり教えています(ロマ7:5~6、10:4、ガラ3:19、3:23~4:7、ヘブ7:11~18、8:8~13、エペ2:14~15、2コリ3:2~11)。すなわち、キリストを信じる者は、モーセの律法から解放されているのです。今の新約時代に生きる私たちは、キリストの律法(1コリ9:21、ガラ6:2)において具体的に示されている規定に従って生きることが求められています。このキリストの律法は、モーセの律法とは完全に別個の新しい律法であり、キリストおよび使徒たちから与えられた個々の命令がすべて含まれています。

シナイ契約から学ぶ神のご性質

シナイ契約から私たちは、神の義、聖、そして愛を学ぶことが出来ます。 モーセの律法で定められた厳しい規定の数々は、一見すると窮屈に感じるかもしれませんが、痒いところまで手の届く、きめ細やかな配慮を感じます。また、モーセの律法は、私たちが救われるためにまず必要な認罪、つまり、自分は罪人であり、神によって罪赦され、救われる必要があることを認識させてくれます。それによって、キリストを信じる信仰へと導かれて、永遠のいのちへと至るのです。そして、神に従順になることで得られる祝福を体験的に理解させてくれるのです。

モーセの律法は人をキリストへと導く養育係であるとは、本当に言い得て妙であり、神が幼子である人間を成長させる愛がこのモーセの律法に表されています。私たちは今、キリストの律法の下に置かれていますが、キリストの律法で教えられている神の命令に従順に従って、神から与えられる祝福に満ちた人生を歩んでいこうではありませんか。

  • 2022/01/01
  • 神が人と結ばれた契約

神が人と結ばれた契約(4)

信仰の原点

新年を迎えるにあたって、私たちの信仰の原点を振り返ってみたいと思います。私たちは、イエス・キリストを救い主として信じる信仰を持っています。この信仰を遡ると、イエス・キリストの先祖であるアブラハムに至ります。つまり、私たちの信仰の原点はアブラハムであり、アブラハムが神と結んだアブラハム契約にあるのです。これからアブラハム契約、およびアブラハムの信仰を通して、私たちの信仰の原点を確認したいと思います。



アブラムの召命

アブラハムはもともとアブラムという名前でした。アブラムは、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1~3節)という神の声を聞いて、そのことばどおりカナンの地に向かいました。そして、時に不信仰に陥ることもありましたが、神の導きに従って、神に約束された土地で生活しました。



アブラハム契約の締結

神は、アブラムと様々な条項からなる契約を結ばれましたが、大きく次の3つに分類できます。それは、①土地に関する条項、②子孫に関する条項、③祝福に関する条項の3つです。①土地に関する条項では、アブラムとその子孫に、カナンの地が永久に与えられることが約束されました。②子孫に関する条項では、アブラムの子孫が地のちりのように増え、アブラムから大いなる国民(イスラエルという国)が生まれること、またアブラムが諸国民の父となることが約束されました。③祝福に関する条項では、アブラムが多くの人々の祝福の源となり、アブラム及びアブラムの子孫(メシア)によってすべての民族が祝福されることが約束されました。

このアブラハム契約を締結したとき、神とアブラムはある儀式を行いました。それは三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持ってきて真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにして、その間を通り過ぎるというものでした。通常は、契約の両当事者が通り過ぎるのですが、アブラハム契約が結ばれる時は、神だけが、「煙の立つかまどと燃えているたいまつ」というシャカイナ・グローリーの形で切り裂かれた死体の間を通り過ぎました。この時、アブラムは寝ていたので死体の間を通過していません。これは、神だけがこの契約に責務を負うということを意味しており、これを無条件契約と言います。つまり、神の恵みによって祝福が保障されるので、アブラムやその子孫の側に契約条項に対する不従順があっても、この契約が破棄されることはないのです。だから、このアブラハム契約の約束は必ず全て成就するのです。



アブラハム契約の継承

アブラムが99歳になった時、神はアブラム(高く上げられた父という意味)の名をアブラハム(多くの者の父という意味)に改名しました。そして、神は、アブラハムと妻サライの間に男の子が生まれると約束され、その子をイサクと名付けるよう命じました。このイサクがアブラハム契約を継承する者として選ばれたのです。その後、アブラハム契約は、イサクの子であるヤコブ、そしてヤコブの12人の息子たちへと継承されていきました。このアブラハム、イサク、ヤコブの子孫がイスラエル人(=ユダヤ人)であり、生まれた男子は皆、八日目に割礼をすることで自分達がイスラエル人であるというアイデンティティーを持ちました。この割礼がアブラハム契約のしるしとなったのです。



アブラハムの信仰

サライが不妊だったため、アブラムには子がなかなか与えられませんでした。しかし、あなたの子孫は星の数のようになる、と仰った主(神)をアブラムは信じました。その信仰によって、アブラムは義と認められました。その後、時が経ち、イサクが与えられたことは上述のとおりです。そして、神はアブラハムの信仰を試すために、イサクを全焼のささげ物として献げなさいと命じられました。アブラハムは、その命令にすぐ応答し、翌朝早くにイサクを連れてモリヤの山に向かいました。この時、アブラハムは、自分の子孫が星の数ほど増えると約束してくださった神のことばを信じていたので、イサクを献げても必ず復活するという信仰を持っていました。 そして、アブラハムは刃物を取り、本当にイサクを屠ろうとしました。その時、神が介入なさって、イサクの代わりに雄羊が与えられました。



アブラハムから学ぶ信仰の原点

アブラハムは、神のことばを信じて、どこに行くのかを知らずに故郷を離れました。そして、子どもを生むことができない年齢であったのに、子孫が星の数のようになるという神のことばを信じました。また、アブラハムは、神は約束を必ず成就されるので、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると信じました。この「神のことばは必ず成就する」、「神は死者を復活させることができる」という信仰こそ、アブラハムの信仰であり、私たちの信仰の原点です。事実、神はそのひとり子であるイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。私たちは初穂である主イエスに続いて、将来必ず復活するのです。この希望を持って、アブラハムをはじめとする信仰者たちと共に、信仰の創始者であり完成者である主イエスから目を離さずに生きていこうではありませんか。

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