メッセージテーマ「霊的備え」



  • 2024/02/01
  • 霊的備え / 携挙

霊的備えのすすめ

2024年は、元旦から能登半島における大地震からスタートした。筆者は、遅ればせながら、防災意識が高まり、家具の固定や備蓄品の確保など、危機的状況に対する備えをし始めた。その備えをしながら、もっと大切な備えについて思いを馳せている。それは、「霊的備え」である。私たちにとって、最大の悲劇は死である。その死を避けるために防災をするのであるが、さらに、死んだ後の備えこそが、「霊的備え」なのだ。私たち人間は、神の前に一人残らず罪人であり、死後の裁きにおいて有罪を免れ得ない存在である。死後の裁きで有罪となった者には、火と硫黄の燃える池(地獄)での永遠の滅びが待っている。神は、私たち人間を愛しておられ、一人として地獄に行って欲しくないと願っておられる。それゆえ、神ご自身がイエスという人となられ、私たち全ての人間の罪を贖うために、十字架で死んでくださった。そして、イエスは墓に葬られ、三日目に蘇られた。このイエス・キリストは今も生きて私たちを罪と死から救ってくださるお方であると信頼した者は、全ての罪が赦され、永遠の命が与えられる。そして、死後の裁きで無罪とされ、御国で永遠に安らぐことができる。このグッドニュースを信じ、イエス・キリストにある救いを受け取ることこそ、霊的備え、究極の防災である。

イエス・キリストを救い主として信じた者、すなわち、クリスチャンは、霊的備えができているのだが、霊的備えにも段階がある。それは、義認、聖化、栄化という段階である。私たちはクリスチャンになった瞬間に、義認された。つまり、神に義と認められたのだ。これは一度限り起こることであり、一度義認された者は、その状態を失うことは決してない。その後、聖化という段階に入る。これは、霊的状態が徐々に清められ、キリストに似た人格へと変えられていくプロセスである。私たちは義認されても、直ちに「聖人君子」になるわけではない。依然として、生まれながらに持っている罪の性質のため、日々罪と格闘しながら生きている。

しかし、聖霊の力によって、徐々に罪から解放されていき、罪を犯す頻度が減ってくる。そして、聖化が完成する日が来る。それが、「キリストの日」、つまり、キリストが再臨する時である。より詳細に言うと、キリストが空中までクリスチャンを迎えに来られた時、クリスチャンは栄光の体に変えられて(栄化され)、天に引き上げられるのだ。これを「携挙」と言う。

クリスチャンは、キリストの日に、キリストの前に立つのだ。そのために、今から備える必要がある。その備えとは、日々キリストの教えに従って生きることである。そのためには、キリストが私たちに何を教え、どのように生きるべきであるかを聖書から学ばなければならない。そして、学んだことを生活の中で実践して、自分のものとしていかなければならない。この営みは、自分の頑張りによって成し遂げられるものではない。聖霊の助けが必要である。私たちの助け主である聖霊に心を明け渡すことによって、聖霊が私たちの心を支配してくださり、キリストの教えを守ることができるように、私たちを造り変えてくださるのだ。こうして、私たちは、知識と識別力を身につけ、大切なことを見分けることができるようになる。そして、キリストの日が来るまでに、純真で非難されるところがない者となり、豊かな義の実をつけるようになる。これは全て神の力によることである。それゆえ、その時、神の栄光と誉れが現されるのである。これが私たちの上に成就するように、パウロは次のように祈っている。

ピリピ人への手紙 1章9~11節
"私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。"

このパウロの祈りが私たちの上になりますようにと祈りつつ、日々、霊的備えをしていこうではないか。キリストの日は、もうそこまで来ている。

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