メッセージテーマ「神の栄光」



  • 2023/12/01
  • 神の栄光 / クリスマス

神の栄光に導かれて生きる

私たち人類が向かっているゴールは、神の栄光の中で永遠に生きることである。と言っても、あまりピンと来ないかもしれない。神の栄光とは一体何なのか。栄光とは、人格に関わる概念であり、その人が持つ素晴らしさを意味する。よって、神の栄光とは、神が持っておられる素晴らしさのことである。神は、愛、義、聖、全知、全能、永遠、遍在などの素晴らしいご性質を持っておられる。この世界は、これらの神のご性質が現される場として創造された。しかし、人間が罪を犯し、堕落したことによって、非常に良かった世界が呪われてしまった。かつて人間は、神の栄光の現れであるシャカイナグローリーと共に生きていたが、人間の堕落によってシャカイナグローリーから切り離されてしまった。しかし、神は恵みによって、この世に救い主を送り、再び人間がシャカイナグローリーと共に生きるようにしてくださることを約束してくださったのだ。この人類歴史は、人間が再びシャカイナグローリーと共に生きるようになる過程である。このゴールを実現してくださる救い主が、イエス・キリストである。

神が救い主を遣わしてくださるという約束は、聖書の中に記されている。それゆえ、聖書を読むことで、その救い主がいつ来られるかということを推測することができた。バビロン(現在のイラク)に住む占星術の博士たちは、ダニエル書9章の預言から、今から約2030年前に救い主が来られることを知り、その時を待っていた。また、民数記24章から、救い主が誕生する時には一つの星が現れるということも知っていた。そして、まさにその通りに一つの星が現れたのである。それを見た博士たちは、誕生した救い主を拝みに行こうとして、イスラエルの首都であるエルサレムへと向かった。そして、ユダヤ地方の王であったヘロデから、救い主はベツレヘムという町で生まれると聞き、彼らは星に導かれて移動した。ベツレヘムに着くと、その星は、幼子がいる所まで彼らを導いたのである。この星は、東(バビロン)から西(エルサレム)に移動し、さらに南(ベツレヘム)に行き、そして、幼子のいるところまで動いたのである。

この超自然的な星は、シャカイナグローリーである。東方の博士たちは、シャカイナグローリーに導かれて、救い主イエス・キリストの元に辿り着いた。この時、彼らは非常に喜んだ。この喜びは、神の御心の中を歩んでいるという確信に基づく喜びであった。

イエス・キリストは、神であるお方が人として生まれてくださった救い主である。まさにシャカイナグローリーそのものであるお方である。そのお方が、全人類の全ての罪を贖うために、身代わりとなって十字架で死に、墓に葬られ、三日目に蘇られた。このことを信じ、イエス・キリストは今も生きて自分を救うことができるお方であると信頼した者は、罪赦され、永遠の命が与えられる。そして、将来、死んでも必ず栄光のからだを持って蘇り、罪や死が全くない完璧な世界で、シャカイナグローリーと共に永遠に生きることができる。クリスマスとは、この良き知らせをもたらしてくださったイエス・キリストのご生誕をお祝いする日である。イエス・キリストから差し出されている永遠の命というクリスマスプレゼントをまだ受け取っていない方は、今、受け取って頂きたい。そして、共に神の栄光に満ちた世界で永遠に生きようではないか。神の栄光に導かれ、神の御心の中を生きる者は幸いである。

  • 2023/01/01
  • 神の栄光

神の栄光とは

創造主なる神は、なぜこの世界を作られたのか。なぜ神は、私たち人間を造り、生かして下さっているのか。なぜ神は、御子イエスをこの世に遣わして下さったのか。これらの「なぜ」に対する答えは、全て一つのキーワードで表すことが出来る。それは、「神の栄光」である。神は、ご自身の栄光を現されるために、この世界、人間を造り、私たちを生かし、御子イエスをこの世に遣わして下さったのである。しかし、「神の栄光」という言葉は少し漠然としており、その意味を掴み取りにくい。そこで、これから神の栄光とは何なのかについて少し掘り下げてみたい。 日本国語大辞典によると、「栄光」とは、①幸いを表わす光、②輝かしい誉れ、③キリスト教で、神の顕現・臨在を表わすのに用いる語、と書かれている。このうち①は、瑞光とも言われるが、「後光がさす」という言葉で表されるように、有難さを感じるようなまばゆい光のことを栄光という。また、②は、言い換えれば「素晴らしい」と褒め称えられる状態のことを意味している。そして、③は、神がそこにおられることを示している現象のことを意味している。ここで、「神の栄光」と言った時に、これらのうち、①と③は関連しており、シャカイナグローリーという言葉で表現することができる。また、②は、神が如何に素晴らしいお方であるかというご性質についての言葉であると言える。では、この2つの観点から、神の栄光について確認していきたい。

シャカイナグローリー

神は、霊的な存在であるため、私たち人間の目で見えるお方ではない。しかし、神が、私たち人間に知覚できる現象として、ご自身の臨在を現されることがある。それをシャカイナグローリーという。シャカイナグローリーは、光、火、煙、雲、風、雷、稲妻、角笛の音などのような現象として、多くの場合は複数で現れる。 このシャカイナグローリーを最も多く経験しているのが、旧約聖書に出てくるモーセという人物である。モーセは、柴の中に火を見つけたが、柴が全く燃えていないのに気が付いた。これは明らかに自然な火ではない。モーセは、その柴の中の火から語りかける神の声を聞いた。また、モーセが神からシナイ契約という神と人との間の契約を与えられた時、シナイ山の上に雷と稲妻と密雲と角笛の音が同時に現れた。これはシナイ契約の信頼性を保証するためであった。このように、神は、ご自身がそこにおられることを示すため、また、ある物事、教え、人物の正統性を保証するためにシャカイナグローリーを現されるのである。 このシャカイナグローリーの究極的な形が、イエス・キリストである。神の栄光が、イエスという人間の肉体に宿ったのである。神ご自身が人となられることによって、私たち人間にとって最も近い存在としてその臨在を表してくださったのだ。イエス・キリストは、普段はそのご栄光を隠して、仕える者の姿を取られたが、高い山に登られた時に、3人の弟子たちの前でそのご栄光を現された。その時、イエスの顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。その後すぐに元の姿に戻られたが、将来、再びこの世に来られる時、イエスはこの栄光の姿で人々の前に現れるのである。

約束の成就

創造主なる神は、人と契約を結ばれる神であり、約束されたことを全て成就されるお方である。神は、預言されたことをことごとく成就されることを通して、歴史を支配し、導かれておられることを、私たちに示された。このように、私たちは、聖書に預言されていることが事実、その通りに成就することを目の当たりにすることによって、「神は素晴らしいお方である」と、神を褒め称えずにはおれなくなる。その時、神の栄光が現されるのである。 神は、聖書で預言された通りに、御子イエスを処女マリアから誕生された。そして、イエスは、聖書で預言された通りに、全ての人間の罪を贖うために十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目に蘇られたのである。この十字架の御業によって、私たちは、イエス・キリストを救い主であると信じる信仰により、神の恵みによって救われ、永遠のいのちが与えられるのである。 将来、キリストは、聖書で預言されている通りに、再び地上に戻ってこられ、全ての悪を滅ぼし、メシア的王国を設立される。そして、聖書で預言されている通りに、その1000年後に、今の天と地が過ぎ去り、新しい天と新しい地が現れ、神を信じる者はそこで永遠に神と共に生きるようになる。このように、聖書で預言されていることが全てその通りに成就することを通して、神の栄光が輝き出るのである。

クリスチャンを通して現される神の栄光

イエス・キリストを救い主であると信じたクリスチャンたちは、聖霊の力によって、日々人格がキリストに似た者と変えられている。そして、キリストに繋がることによって注がれる恵みによって、豊かな「義の実」をつけることができる。義の実とは、「御霊の実」とも呼ばれ、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などのことばで表現されるものである。クリスチャンが、これらの義の実をつけることによって、それを与えた神の栄光が現されるのである。今年一年も、人間中心なこの世にあって、神の栄光を現すような生き方を神の力によってさせて頂こうではないか。

  • 2022/10/01
  • 神の栄光

神の栄光に生きる

天地万物の創造主である神は、何のためにこの世界を創造されたのか、何のために人類を造られたのか、何のために聖書を通して語られたのか、何のために人類を救われるのか、その答えはすべて「神の栄光」のためである。神の栄光と言うと、ピンと来ないかもしれないが、一言で言えば、「神は素晴らしい」ということである。私たち人間は、自然界を通し、また聖書を通して、神が如何に素晴らしいお方であるかを知り、神をほめたたえるために造られ、そのために生きている。神の素晴らしさ、神の栄光に感動しながら生きる人生こそ、私たち人間にとって最も幸せな人生である。では、具体的にどのようにして神の栄光をほめたたえることができるのか、これから確認していきたい。

神は、イスラエルに対する計画、教会に対する計画、天使たちに対する計画など、様々な計画を持っておられる。それらの計画が全て必ず成就することを通して、神はご自身の栄光を表されるのである。よって、聖書を通して神の計画を知り、それがその通り成就していることを確認することで、神は約束を全て守られるお方である、神はなんと信頼できるお方であるかと、私たちは叫ぶようになる。特に、私たちの救いに関する神の計画を知った時、神の栄光をほめたたえずにはおれなくなるだろう。

私たちの救いに関する神の計画について教えられている箇所の一つが、エペソ人への手紙1章4〜5節である。

"すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。"
(エペソ人への手紙 1章4~5節)

ここに驚くべき事実が記されている。なんと、私たち信者は、天地創造の前から、キリストにあって選ばれていたのである(これは既に救われている人たちに対する励ましの言葉であって、信じていない人たちは選ばれていないという意味ではない)。

その選びの目的は、私たちが「御前に聖なる、傷のない者」になるためである。これは私たちの頑張りによって可能になるものではなく、神の恵みにより信仰によって可能となる。なんと素晴らしいことだろうか!神は永遠に存在しておられる創造主なるお方であり、歴史を支配し、ご自身の計画を全て成就されるお方である。その深淵なるご計画の中で、私たちが生まれ、そしてイエス・キリストを信じる信仰へと導かれ、神の子とされたのだ。その最終目的が次の節に書かれている。

"それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。" (エペソ人への手紙 1章6節)

この聖句にある通り、神の恵みの栄光がほめたたえられることが、私たちが選ばれ、神の子とされ、御前に聖なる傷のない者となる最終目的である。よって、私たち人間は、聖書を通して神を知り、神を礼拝して、神の栄光をほめたたえる時、その造られた目的が達成されるのである。その時、私たちはこの上ない至高の幸せを感じることができる。

最後に 救いは神の主権と選びによるものであると同時に、神はすべての人を招いておられる。それは、"すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。"(マタイの福音書 11章28節)とある通りである。この記事を読んでおられることは、神から招かれている紛れもない証拠である。今、その招きに応答し、イエス・キリストを救い主として信じ、神の子とされ、永遠のいのちを頂こうではないか。そのために必要な情報は以下のとおりである。

イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目に蘇られたこと。

この福音の三要素を信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことのできる救い主であると信頼した時、私たちは神の前に罪なしと見做され、永遠のいのちが与えられるのである。もはや死は、滅びではなく、神の御前に行く道の門となる。是非、この祝福を受け取って頂きたい。そして、神の栄光のために生きる人生を共に歩もうではないか。

単 立 広 島 平 和 教 会

〒734-0021広島県広島市南区上東雲町9-10
Copyright © 2021 広島平和教会 All rights reserved.